牧師室より

「心の目を神に向けなさい」

ぶどう園の主人は、朝早く日雇い労働者を得るためにたまり場に行かれたのだと思います。まず、ここで注目すべきことは、ぶどう園の主人の熱心さであります。仕事に対する熱心さであり、ただ、労働力を必要としているから、次から次へと労働者を雇ったのではないのです。それは、主人の暖かい配慮であります。「だれも雇ってくれるものがない」ので呆然とそこに朝から立ちすくんでいる者への主人の憐れみです。9時、12時、3時、さらに5時にも、都合、4回にわたって、虚しく市場に立っている者への主人の省みです。まさに 、4回にわたって主人の「しつこさ」です。でも、それは主人の愛の配慮であります。普通、「しつこさ」は悪いことと思われるかもしれません。でも、一人も置き去られることのないために、何度も市場に足を運ぶ主人の行動の「しつこさ」は、愛の心に他なりません。そして、これこそ神の愛であります。神は、私たちがすべて滅びることなく、神の働きの中に、神の恵みの内に招かれていることを望んでおられるのです。

10節~11節「最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。」

だれも同じように、1日1デナリオンで最初の労働者として報酬が与えられたのです。デナリオンとは当時のローマ帝国内で使用していた銀貨です。標準的な1日の賃金は、1デナリオンです。1日が何とか生活できる賃金です。でも、ここで人間の思いが出てきます。人と自分を比較した思いです。神の目によっては、すべての人を同等に扱う公平さがここにあるにもかかわらず、人間の目は自分だけのことを考え、自分にとって相応しい報酬・報いを求める思いがどうしょうもないものとして強くあるのです。

13節~14節「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」

全体を公平に見ることなく、自分を中心にし、そのことの見返りを求めるものに対して、ここで「あなたはどうして主人の気前の良さをねたむのか」という言葉が語られています。ここで使われている「ねたむ」と訳されているギリシャ語は、「あなたの目は、悪いのか」という意味です。見るべきものを見ることのできないほど目が悪くなっているのではないか。それが「ねたむ」という言葉になっています。ぶどう園の主人から見ると、それぞれが一日1デナリオンの約束をして働いてもらい、その契約に応じて1デナリオン払ったのであるからして、何ら契約不履行ではないのです。けれども、朝早くから働いた労働者にしてみれば、ほんの少ししか働かない者に対しても、同じ1デナリオンが支払われるというのは、非常に不公平に思えるのです。

フランスの画家、ジャン・フランソワ・ミレーの、1857年の作品である「落穂拾い」があります。これはバリのオルセー美術館に収められています。大きさは、縦83.5cm、横111cmです。この絵には、3人の貧しい女性たちが収穫の終わったばかりの畑の中で、残った麦の穂を拾っています。3人の女性の内、一番右側の女性は、年老いた女性であろうか、体を曲げ、落穂を拾っています。2人は娘であろうか、地面の方に身を屈め、右側の片手で麦の穂をつかみ、もう一方の手で、すでに拾った穂を束にして握っています。彼女たちは、季節が秋になれば、収穫で取り残された葡萄の残りを集めているのです。たとえ、他人の畠に入って、落穂拾いをしている時に、他の人が通ったとしても、彼女たちは顔を隠したりはしないのです。なぜなら、それはフランスの法律によって正当に保証されている行為だからです。「落穂拾い」は偶然の恵として与えられている当然の権利なのです。

「落穂拾い」のことが聖書にも語られています。「ルツ記」です。飢餓により、自分の土地を離れざるを得なくなり、義理の母であるナオミの土地に来たルツは生きていくために「落穂拾い」をしています。旧約聖書のレビ記19章9節~10節にこう書かれています。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」

このように、落ち穂拾いは、土地を持たない「貧しい人」や寄留の異邦人の扶助を旨とする規定でありますが、その背後には古代イスラエルの伝統的な土地所有の独特の観念があったのです。土地は所有者の自由に処分できる個人的な不動産ではなく、それは最終的に神に属するものと考えられていたのです。ですから、耕地を所有しない人たちにも大地の実りを受ける権利があると考えが生まれるのです。

イエスはこのたとえで「ねたんではいけない」とは言っていないのです。ここで主人は、「どうしてお前はねたむのか」と言うことで、本人が自覚していない「ねたみ」それを自覚させることを促しているのですが、「ねたむな」とは言っていないのです。つまり、「ねたむ心」そのものを断罪してはいないのです。「ねたむ」心を謙虚に受け止め、そこから自分のあり方を神の中で見出すことです。

最後に、パウロが信仰者の姿を次のような言葉をフィリピ4章11節~13節で言っています。

「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」。

(2017. 10. 15 礼拝説教より)

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