牧師室より

「孤独と交わり」

本日の礼拝は待降節第1主日です。新しい教会暦が始まります。待降節とは、ラテン語で「アドベント」と言い、この呼び名は古くは紀元後の300年頃の教会歴として使われてきたと言われています。この「アドベント」の元の意味は、「ある場所にやってくる」という意味で、つまり、神のみ子がこの世に、私たちのところにお出でになる、という意味です。神のみ子を迎える時を教会の信仰の交わりの中で受け止めるのです。  マルコ福音書11章8節~10節「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』」

この主イエスのエルサレム入場の場面の時は何時であるかと言いますと、イエスが伝道の地であったガリラヤを去り、エルサレムに向かったのは、早春の頃ではないかと思います。あの出エジプトを記念する大きな祭り、過越し祭が祝される直前であります。これは主イエスの最後の旅です。主イエス御自身も、エルサレム当局との最終的な激突を意識し、それにより自らの身の危険をかなり自覚してエルサレムに向けかったのです。でも、それは最初から「死を自覚して旅」とまでは言えないと思います。ある人々は、主イエスの最後のエルサレムへの旅を「死を覚悟した旅」と位置づけますが、最初から主イエスは「死を覚悟」していたかどうかは分かりません。自分の身の危険を大いに内心抱いていたと思いますが、最初から「死を覚悟」していたとは思えないのです。そして、ゴルゴダでの十字架の死においても、「決意の死」ではなかったと思います。自分の身の危険と不安の中におかれ、最後には避けることのできない死を主イエスはやむを得ず受容したのだと思います。

人間の姿を取った人間の死、見捨てられた孤独の死が背後に告げられているのです。たとえ、群集から讃美で迎えられたとしても、最後は一人でいるキリストです。私たちが大事なことを決断したり、大事な事をなす時、それは「一人、孤独の中において」であります。神が私たちを呼ばれる時も、私たちはただ一人で神の前に立つのです。でも、神の召しに従ったキリストは神の中に生きているのです。孤独であっても、神との交わりの中にいるキリストです。

今年、5月、フランス大統領に39歳という史上最年少の大統領としてエマニュエル・マクロン氏が就任しました。その前は、オランド大統領です。その前はフハンガリー系の移民の二世であるサルコジという人がフランスの大統領に就任しました。その前は、日本通のシラク大統領です。さらにその前は、ミッテランという人が1981年から1995年までの14年間、大統領でした。彼は、大統領を努めた次の年の、1月に前立腺癌のため亡くなっています。実は、ミッテランは、大統領初当選の1981年よりガンに患っていたのです。それを知りつつ、2期14年間、大統領として執務をまっとうしたのです。後で明らかにされたのでは、最後の年は大統領としての執務が困難な状態までガンは進行していたのです。

さらに、ミッテランが大統領に当選した年のことだと思いますが、ガンの診断をされ、主治医から「あなたの生命あと半年です」と告げられた時に、ミッテランはどうしたといいますと、彼はカトリック信者の家庭に育ったこともあり、ただちに一人の年配の哲学者、ジャン・ギトンという人の家を訪ねたのです。ジャン・ギトンは1999年に93歳で亡くなった、フランスを代表するカトリック信仰を持った哲学者です。その哲学者ギトンに向かって、ガンの宣告による恐れと不安の中で、ミッテランはこう聞くのです。「生命とは何ですか。死とは何ですか。死後の世界は本当にありますか。」と聞いたのです。これに対して、哲学者ギトンはこう答えたと言われています。「人間は二つの死があるが、国王の死それは孤独の中で死にます」と教えるのです。

死は自分ひとりの死であり、根本的には孤独なものであることには代わらないが、それでも、ことに一国のリーダーとしての、大統領の死は国王のように徹底して孤独なものであり、あえて、たった一人で毅然と死に向わなければならない、ということのメッセージをミッテランに伝えたかったのだと思います。そして、そのギトンの言葉通りと言えるかもしれませんが、ミッテランは事実、2期14年にわたって、ガンと戦いながら、一国の指導者としての職務を全うするのです。

私たちの宗教改革者ルターは、あるところで、こういう言葉を残しています。「われわれはみな、死を求められており、だれも他の人に代わって死にはしない。各々、自分のひとりで自分のために死と戦うのである。その時、私はあなたの傍にいない。また、あなたも私の脇にいなのである。」

大事な時に、ことに自らの死をかすかに意識する時に私たちは一人でそのことに耐えて、立ち向かわねばならないのです。でも、本当にひとりで立ち向かう時に、私たちには本当の交わりが与えられるのです。自らの十字架を負い、戦い、祈る時に、そして死の終末の時でさえも、私たちは一人ではないのです。

ルターはこういう言葉も付け加えて言っています。「私が死ぬ時には、死においても私は一人ではないのです。私が苦しむなら、キリストにある群れが共に苦しむのです」、と。

自らの死と苦しみ、それと共にある信仰の交わりをルターは同時性として言っているのです。キリストとの正しい交わりは単なるおしゃべりや気晴らしではないのです。単なるおしゃべりや気晴らしは、一時的な孤独感を忘れさせ、一時の精神的な憩いを与えるかもしれませんが、それはキリストとの交わり、さらにキリストにつながる他者との信仰の交わりを求めているものではないのです。一人でいれない人は、自分自身でやっていけない人ですので、いつかは交わり、教会の交わり、さらにキリストとの交わりに幻滅して、本当は自分の責任であるのに、非難の矛先を信仰の交わりのあり方に向けてしまうのです。

キリストとの交わりにいるときにこそ、私たちは一人でいることができるし、また、神と共に一人でちゃんといれる人は、他者との正しく相応しい交わりを保つことができるのです。どちらか一つではないのです。交わりか孤独かではないのです。神において一人でちゃんといれる人は、正しいキリストにおける他者との正当な交わりを必要とし、また保つのです。キリストのとの信仰の正しい交わりを持つ人は、一人であることの本質を学ぶのです。どちらかが一つが先にあるのでないし、他の一つに先立っているのではないのです。二つは同時に、共にあるのです。キリストのみ言葉を分かち合い、キリストにつながる交わりを持つ者は真実の他者の交わりを持つことができるのです。

(2017. 12. 3 礼拝説教より)

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