牧師室より

「立ち上がる信仰」

マルコ福音書14章1節以下は、イエスがベタニアで一人の女から「ナルドの香油」を注がれたことを伝えています。イエスがエルサレムに最後の旅をされたのは、時は早春の頃であります。このマルコの福音書では、イエスはすでに、この前に一度、エルサレムを訪れています。でも、エルサレムに留まることなく、エルサレムから戻って、あえて、エルサレムから近い、ベタニアという村に泊まっています。ベタニアはエルサレムまでは4キロほどであります。このベタニアで一泊している時に、本日の福音書が伝える「ナルドの香油」の出来事があり、その場面をマルコは適格に記しています。/3節「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」

「重い皮膚病」に罹っているシモンの家に一人の女が入り込んできたのです。普通の食事の席ではありません。律法において「不浄」な者と言われている「重い皮膚病」の者との食事の席です。この食事の席に一人の女が自分から進んで入ってきたのです。しかも、この女の振舞も異常と言えます。彼女は、「ナルドの香油」をイエスの頭に注ぎかけたのです。突然、入ってきた女は、回りの人の了解を十分に得ることなく、自ら持参した香油を主イエスの頭に注いだのです。他の人からすれば、事前の何の断りも高価な香油を一度に注いでしまう、無駄と思える行為です。

4節~5節「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。」

これは人間の単純な常識的反応です。しかも合理的な言葉です。キリストが死に至り葬られていく前ならば、そのために高価な「香油」を塗るよりはもっと他のために貧しい人のために用いた方が良いという反応は当然、人間的な思いから出てくるのです。一種の人間的な合理的主義です。でも、合理的な批判では、本当の神の愛の本質は捉えられないのです。そして、合理的な考えによる批判は時として批判のための批判として用いられるのです。それは批判をするためにもっともらしい理屈をつけているのであって、事の本質をうけとめて意見を言っているのではないのです。そのような合理的に理屈を一応、表面的に通っているかのように思えるものであっても、それは相手のことを思っているのでなく、批判のための批判であり、今必要とされる神の時が今何であるかを受け止めていない、人間的な自己中心的な思いであるのです。

6節「イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」

この6節のイエスが言われた言葉「するままにさせておきなさい」という言葉は強い命令的な表現です。「そうしたらよいのではないか」とか「私はこう思うのだが」といった自分の意見をあいまいにしたような表現ではないのです。「するままにさせなさい」という強い断言的な命令の言葉です。

「するままにさせておきなさい」という言葉はギリシャ語原文に従うと「アフェミー」という言葉が使われています。この意味はそこから「解き放つ」とか、「彼女を解放しなさい」とか、あなた方の常識で相手を縛らないで、その行為を「自由にさせなさい」という意味です。

善い行いも気を付けないと合理的な判断から考えられてしまいます。道徳的判断から「あなたはこうすべきである」という義務の行為が進められることがあります。でも、キリストにおける愛の行為は合理的・道徳的判断に基づくものではありません。この世の損得勘定、その行為の先の結果を推し量ってする慈善行為ではありません。また、聖書は道徳的書物ではありません。聖書にこう書いてあるから私たちは日々の務め、教会における愛に基づく奉仕の業、これらを守るために、よき業をするのではありません。信仰におけるよき業、愛の業は、それらを私たちが最善の思いでするのは神において赦されているから行うのです。

本日の使徒書フィリピ2章6節以下でパウロはこう書いています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

私たちのために十字架に架かりたもうキリストの業、それは神の愛の啓示なのです。キリストの十字架と死における神の愛です。私たちのすべてのよき業、奉仕、愛の行為の前にキリストの愛が先立っているのです。それが先の神の出来事としてあるのです。ですから、私たちの真の愛は神の内に、神と共にあるのです。愛は人間の態度とか考えに基づくものでなく、神の内に、神と共に与えられるのが真の愛であることを私たちはキリストの十字架において知らされるのです。キリストの十字架は神の罪の赦しであるのです。ですから、真の愛は私たちが神において、神と共に罪ゆるされたものとして、赦されているがゆえに行うことができる愛なのです。赦されているがための愛、それはあるがままの愛の業であるのです。

キリストの赦しの業にあずかることにより、私たちは真の人間となるのです。真の人間とは神の前で一定のキリスト教的倫理を装い、理想的に生きようとしたり、自らを見せかけによって偽善的に生きようとする人間となるのではないのです。人の上に自分を置いたり、他の人の模範になったりすることはできないことを謙虚に受けとめ、自らが罪人の頭であることを真実に受け止めるのです。私たちはあくまで、ただの人間になるのです。人間が神になるのではないのです。神において罪ゆるされるただの人間そのものとなること、これが信仰の目的です。

マルコ福音書14章9節「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

(2018. 3. 25 礼拝説教より)

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