牧師室より

「明日は明日」

 本日のマタイ福音書は「山上の説教」の中心を占める箇所です。

 26節「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。

 ここで、主イエスは、神が「鳥を養ってくださる」とあります。このマタイ福音書では「鳥」となっていますが、同じイエスの言葉を伝えるルカ福音書12章24節の方では同じ鳥に属するかもしれませんが、そこでは「烏」(カラス)となっています。「烏」は当時のイエスの時代においては、汚れた鳥として忌み嫌われていました。たとえば、レビ記11章15節には、「禿鷲」「とび」「隼」「鷹」などと一緒に汚らわしい鳥として「烏」のことが言われています。
 鳥でさえもあなたたちのようにあくせくと明日のことを思い悩み、種をまいたり刈入れたりしなどしないが、それでもちゃんと神はこれらの鳥をいとおしみ、ちゃんと養ってくださる。あなたたち人間は、このような烏、鳥、野の草よりもずっとすぐれたものだとおもっているではないか。そのように優れたものとして自信を持っているならば、なおさらのことあなたたちは、明日はどうなるだろうか、とんでもないことになりはしないか、明日のことが心配だと思い悩むことはないのだ。大事なことは、このような鳥たちのように、神の息吹の働きにすべてをゆだねていきていくことなのである、とイエスは言っています。
 17世紀にフランスの科学者であり、哲学者であるパスカルという人がいます。彼は若い時にカトリック教会信者となり、晩年は修道院で亡くなっていますが、彼が語った言葉に「人間は葦である」という言葉があります。正確には、「パンセ」(考える)という本の中で「人間はひとくきの葦にすぎず、自然の中で最も弱いものである。しかし、考える葦である」と書いています。つまり、人間は自然と比べたら、明らかに弱い存在であるというのです。自然は規模からいっても、私たち人間をはるかに超えたものであり、自然は一息で人間を絶滅させることができるほどに、人間は小さな存在であるということです。そして、大事なことは葦である人間は、自分が最も小さい存在であることを知ること、これが考える、理性と知恵を持った人間にならなければならない。人間は小さな葦であるけれども、自らが小さいことを自覚すること、ここに人間としての素晴らしさがあるとパスカルは言いたいのだと思います。
 2011年3月に起こった東日本大震災のことを思い出します。JELCは一週間絶たない内に、池袋教会で本教会事務局と東教区が協議して対策本部を立ち上げました。それから3年間の救援活動を行いました。1か月後の4月18日から21日かけて車で東日本大震災の被災地である仙台、石巻、気仙沼、陸前高田をスタッフの方の案内で訪ねました。津波ですべての建物が全壊した地域に入った時は、何度も途中、車を降り、道路の真中に立ち、お互いに声も交わすことが出来ずに身の震えを内に感じました。
 この震災及びこれに伴う災害となった原発事故で、この世界の秩序と維持を託されている人間として謙虚に反省しなければならないことが多くあると思います。人間がどこかで忘れ、傲慢になってしまっていないかということです。自然の力は人間の存在を超えた大きなものであるのです。人間はあくまでも、小さな存在であり、人間の知恵ははかないものであることを謙虚に受け止めることが必要であるのです。

 9節~31節「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」。

 ここで、思い違いをしないでください。「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」といわれている通り、思い悩まなければ、うまくいくということではありません。また、思い悩みが無くなるというのではありません。そうではなく、悩みはあるし、問題は解決しないかもしれないが、それでも、思い悩みは尽きないかもしれないが、神は私たちを支え、生かしてくださっている。その悩み・苦しみの中があっても、その計らいは神の恵みの中にあると受け止められる心の本当のゆとりが信仰において与えられるのです。
 人間の物差しだけで判断すると、すべて悩むことは、また辛いことは、「悪いことだ」と判断してしまう。そして、日々の不安、先の見通しと希望を持てずに、くよくよしながら日々の生活をしなければならないようになります。神のみこころに沿って生きていく時には楽な人生でなく、むしろ痛みと辛さが伴うのが信仰生活であります。それでも、常に、神の将来の時に向けて、信頼と希望を抱いて、信仰の心を開かれた状態にしておくことです。自分の考えた計画と自らの期待に基づく予定の世界に閉じこもるのでなく、神の導きに信頼を寄せ、開かれた状態で神の時を待つことです。確かに、神の時は、状況においては私たちに喜びを与え、神の祝福として受け止られることもあるのですが、場合によっては神の時は、私たちの期待を裏切り、失望に終り、その状況を受け止めるために苦しみを与えられることもあるのです。
 開かれた状態で神の時と言葉を待つということはすべてのことに出会うことを自分が妨げないということです。本当の信仰は心を開いて神の時と業を待ち望むことです。心を開いていくこと、これこそ神において古い自分に固執して生きるのでなく、神おいて新たなる自分を作り変えられていくことになるのです。

(6月18日 礼拝説教より)

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