牧師室より

『神の贈り物」

マタイ福音書13:24-35は「毒麦」の喩えが語られています。これは簡単な話となっていますが、実は幼稚でない、意義深いものを私たちに語り伝えています。

おもしろいことに、この聖書の記述には実際の麦の成長との食い違いがあると言われている聖書の箇所です。

29節「主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。』30節「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

ここで言われる「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」という言葉は、「毒麦」が伸びて高くなっているので、それを抜く時、見分けがつかず、少し小さい「よい麦」まで抜いてしまうから、一緒に集めないのが良いという意味です。でも、この言葉は実際の自然の論理には合っていません。なぜなら、実際に、バレスチナでの麦畑では、良い麦よりも毒麦のほうのが背が低いそうです。だから、穂を刈り取ると、自然とまず背の高いほうの「良い麦」を刈るようになり、つぎに毒麦を刈るという順序になるそうです。ですから、毒麦と一緒に集めることはほとんど起きないのです。

聖書のこのみ言葉において大切なのは、毒麦のような存在が常に自分たちの周りに、又自分の畑のうちに、つまりは自分のうちにも、気付かないところに潜んでいるということなのです。見分けがつかないほどに内に善と悪は潜んでいる。見分けがつかないほどに良いものと嫌なものは混在しているのです。

ですから、人間の振る舞いや行動を表面的なことで軽率に判断したり、決め付けてはならないですよ、ということをこのイエスの喩えは語っているのです。私たちは、あの人は良い人だとか、あの子はだめだとか、あの子の親はだめだから、その家族もだめだとか、ということを簡単に言ってしまいます。そして、そのような嫌なものを排除しようとします。即断して、一方的な決めつけ、それを排除すことに心がけるのでなく、すべて受け入れるようにしなさいと言うことです。

ひぐちみちこさんが1984年に「こぐま社」から出版された『かみさまからのおくりもの』という絵本があります。

この絵本で、赤ちゃんが生まれる、それは神様からの贈り物であると言われています。一人ひとりのお母さんに神様が天使を通して、それぞれに違う赤ちゃんを与えてくれる・・・・・という簡単な内容のことばでつづられています。それぞれの赤ちゃんにすばらしい賜物が神から与えられています。親の望みや希望でなく、その赤ちゃんそのものにそれなりの素晴らしい賜物が神から一方的な恵みとして与えられています。あかちゃんを与えられた親への贈り物は何であるかといいますと、それはその子供の「笑い」、「涙」、「歌声」、「寝顔」、「動き」すべてが親への神からの一方的な贈り物であるというのです。でも人間は欲深いもので、かすかな息をして生きていてくれればうれしいという感覚は次第に薄れていき、『早く歩いてほしい』『じょうずに色々、話してほしい』『工作とか、絵がうまくなってほしい』とか、神からの贈り物に人間的な期待と一方的な願望抱いてしまいます。さらに、それだけで満足しないで、『成績優秀になってほしい』『何かに優れて、人よりもスポーツがうまくなってほしい』といった欲望が次々と考えてしまう、人間的欲望を実は語っているのがこの絵本であると思います。神から送られてきた贈り物にこころから感謝、「ありがとう」という気持ちを持ち続けることを説いている絵本です。

でも、もう一つの真実の側面から言えば、神による一つの存在である自分も含めて、神から贈り物として存在を与えられているものすべてはそんなに喜ばしいことばかりではないのです。神から送られてきた賜物・贈り物であっても、病気に、病に陥ることもあるのです。または日々、一生懸命生きていても、貧しい境遇に陥ることもあるのです。また、自分が望んでもいないのに何かの争いに巻き込まれ、他者との間で不和の関係に陥ることもあるのです。神から作られ、送られた贈り物、つまり人間すべてが常に良いものであるとは言えないのです。

私たちにとって祈りとは神への要望ではなく、むしろ、神から与えられたものにすべて感謝することです。しかも、良いもののも、いやなものも、喜びだけでなく、辛いものも神から与えられた贈り物として「ありがとう」と言えること、これが祈りとなることです。

また、自分の望むものを言葉で祈っていても、そこに自ら行動と決断が伴わないならば、本当のものとして自分の内に受け取れられないのです。祈り、それは与えられたものすべを神の賜物の贈り物として受け止めることです。

神からの贈り物であっても、それは自分には受け入れられないものもあるのです。自分が受け入れることだけでなく、辛いこと、嫌なことも、痛みも、そして、重荷として感じることも神の贈り物・賜物としてあるのです。なんでも、すべてを神から賜物、贈り物と受け止められること、これが信仰によってなせる業です。

本日の使徒書ローマ書8章28節を見てください。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

(2017. 8. 13 礼拝説教より)

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