牧師室より

「誘惑を経て」

本日の教会暦から四旬節に入ります。正確には、先週の水曜日より、聖灰水曜日であり、そこから受難節・四旬節が始まっています。聖灰水曜日から46日目が復活日・イースターです。受難節・四旬節を第六世紀に教会は、復活日への信仰生活の準備期間を6週間と定めました。その6週間から主日の日曜日の6日を引くと、36日です。でも、36日では不適切ですので、40日にするために4日を加えるために、もう一つ前の週の水曜日から受難週を始めたのです。40日というのは、本日の福音書でも触れられているように、イエスが荒野にて、40日40夜、サタンの試みにあったことによるものです。

マルコ福音書1章12節~13節「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。

この聖書が語るように、主イエスは、一方的に神により、荒野に放り出され、そこでサタンの誘惑・試練に出会ったのです。

ルターもそこのところをこのように言っています。「イエスはみ霊によって荒野に導かれたということを読むのであって、自分の意志で行かれたということではないのです。」

「サタン」と言う表現がここでされていますが、「サタン」と言う言葉はヘブライ語です。旧約聖書では、合計26回、サタンという言葉が使われています。その内、9回は人間を表すものとして使われています。人間を超えた存在ではなく、自分に敵対する者としてサタンは受け止められています。自分の内において自らの意志を行う時に、別な意志を働かせるために自分を訴える者、自分に敵意を持って、自分を言い立てるものそれがサタンであると言えます。

キリスト教の偉大なる思想家、神学者と言えば、3名の人の名前があがると思います。その第一は、パウロです。それに、アウクズティヌス、それにルターという3人ではないかと思います。その中で、アウクズティヌスという人は、紀元後の352年、北アフリカのタガステという小さな町に生まれています。父はローマ帝国の下役人です。母モニカは敬虔なキリスト者であり、いつも夫がキリスト教に入ることを祈っていた人です。やがて、この祈りは報いられ、夫は死ぬ少し前にキリスト教に入るのです。アウクズティヌスは沢山の著作を残していますが、彼はそれらの著作の中で父についてはほとんど触れていません。それに対して、母モニカは、幾度なく著作の中に出てきます。その母モニカは、息子アウクズティヌスが抜きん出た才能を持っていることを気づき、可能な限り最善の教育を施すことを願って、当時では最先端の都市の学校に入れるのです。

人生の色々な経験を経て、アウクズティヌスは40歳の半ばを過ぎて、後世に残るひとつの偉大なる書物を書いています。400年に書いた「告白禄」です。これは彼の一生を綴った自叙伝です。この「告白禄」で彼は、40歳までの、ある面では長くて辛い、また誘惑に陥った彼の人生をありのままに語っているものです。そこで彼は、忘れ得ない体験を語っています。その一つは、少年時代の盗みの体験です。その盗みの体験というものは誰にでもあることです。ことに、幼少の時に誰もが経験することです。誰でもが経験する、ごく身近な些細な出来事です。でも、そこに神にそむく人間の内面が隠されている。自由意思を与えられた人間の内面の中に罪を、悪に染まることを楽しむ心の意志があることを彼は語っているのです。

その事件を簡単に言いますとこうです。家の近くにぶどう畑の中に実がついた梨の木があり、彼は自分の友人と真夜中に忍び込み、木をゆさぶり、梨の実を取ったのです。でも、取った梨は彼らは食べずに、豚にやったしまった、というのです。

この事件について、彼はこう言っています。「梨の実を盗んだのは、食べ物に困っていたからではない。ではなぜかというと、それはただ盗みを楽しむためであった。禁じられていることをすることが面白かったからである。」「悪と知りながら行う人間の行動は、悪を愛していることを意味し、それは正に悪意であり、醜いものである。でも、それこそが私の心であった」と彼は告白しています。そして、このような不義を喜ぶ、悪と知りながら悪をする意志、それこそが「原罪」であると彼は言うのです。

つまり、アウクズティヌスが言っているのは、「人間は神に創造されて、よき者として創られているにもかかわらず、創り主を忘れ、神から離れ、自ら欲望のままに、つまり罪びととして生きている。常に罪の中に生きていも、心の奥底では創造主を求めている。でも、その努力は空しく、かえって偽りと不安の中をさまようしかない。しかし、そのようなさまよえる悲惨な人間で対しても、神は恵みと愛において立ち返るべき道を備えてくださる。」と彼はこのように言って神から与えられた自由意思であっても、そこで分からない内に悪を楽しむことをしてしまう罪に陥ってしまうというのです。でも、このように分裂した意志に陥っている悲惨な罪人である人間を神はキリストの憐れみと恵みにより、唯一絶対的な善のお方である神との関係を回復してくださっていると言うのです。

本日礼拝の日課の旧約聖書、創世記は「ノアの箱舟」の物語を伝えています。「ノアの箱舟」の洪水は、神が人間の悪に痛みを感じ、彼らを救うために洪水を起こしたのです。

創世記6章5節~6節ではこう記されています。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」

洪水は世界の破局であっても、単なる神の怒り,審判ではありません。それは神の深い憐れみと痛みの愛によるものなのです。怒りの中に、審判の中に神の痛みの愛があるのです。そして、それは神の恵みによって生き者を救い出す神の救いの業であるのです。「いかにして生きるか、生き残るか」これが「ノアの箱舟」のテーマでもあるのです。

神の救いの業によって、生き残った者に対して契約を結んでいるのが本日与えられている日課の箇所である創世記9章8節以下です。

9節「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。」

生き残ったのはノアの家族だけではありません。地の生き物、鳥、家畜、獣も含まれています。ですから、神はノアとその人間たちだけ契約を結んでいるのではないのです。実に動物たちとも契約を結び、二度と洪水を起こさないとの契約を結んでいるのです。二度と世界の破局、洪水を起こさないとの約束を動物たちとも結んでいるのです。揺さぶられ、誘惑されるのは私たち人間だけではありません。今日の世界においては、被造物全体の、この地球全体の生き物、また自然の適切な保存を広く考えていかなければなりません。この「ノアの箱舟」の物語から教えられることは、私たち人間だけの破滅と滅びだけでなく、いかなる動物、自然全体の適切な保全を図ることが神から託された人間の責任でないかと言えると思います。

(2018. 2. 18 礼拝説教より)

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