2026.01.18説教「教会とは何か」
使徒ペトロの信仰告白
「教会とは何か」
マタイ16章13-19
16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
本日は、「使徒ペトロの信仰告白」を覚える主日でもあります。そこで、聖書が伝える「教会」の出発点について聴いてまいりましょう。
教会の礼拝に集う者にとって、「教会」という言葉はあまりにも慣れ親しんでいますから、日常的にそこに特別な意味を求めてはいないかもしれません。
しかし、教会で何事かが起こった場合、本来教会とは何かが、その時々に問われるのです。
「教会」という言葉は、一般的には「建物」を指す場合が多いかと思われますが、信仰的に考えれば、「人々の集まり」を指すものです。
聖書を見ますと、旧約聖書には「教会」という言葉は使われておりません。
代わりに、建物を表す言葉としては、シンボルとしての神殿、至聖所が挙げられますが、記録上の例外としては詩編から多くの会堂があったことがうかがえます。
その他、人の集まりを表す言葉としては「共同体」が使われています。
民族的、歴史的、政治的な意味合いでも用いられる言葉ですが、聖書が示す神への信仰を中心とした集団としても共同体と呼ばれていたことと思われます。
これに対し新約聖書では、「教会」の原型となったであろう、ユダヤ教の会堂については多く語られています。
この「会堂」は単なる宗教的な建物のことではなく、人々の集まりであるコミュニティを指しています。
ヨハネによる福音書9章21節に記された出来事を見ますと、会堂につながっていることの社会的な影響力がうかがえます。
《しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。》
とあります。
本日注目する「教会」という言葉は、新約聖書の中でも福音書に絞りますと、マタイによる福音書に2回使われているだけなのです。
それは「教会」が、キリストの死からの復活と昇天、そして聖霊降臨の出来事により、弟子たち・使徒たちによる宣教によってキリストを信じる者たちの教会が生まれ始めたからでありましょう。
イエスは、ご自分につながる者の集まりを、これまでのように「会堂」とは言わず、「教会」という表現を使われます。
マタイによる福音書16章18節では、イエスご自身が弟子のペトロに語られた言葉に、「教会」という言葉が使われています。
《わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。》
とある通りです。
ペトロに対し、何の前置きもなく、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」とおっしゃっるのです。
誰も聞いたことがなかった「教会」という言葉に、ペトロ自身はとまどったことでしょう。
では、イエスは何をイメージされて「教会」と表現されたのでありましょうか?
もう一か所、「教会」という言葉が使われている出来事を参照しますと、マタイ18章15節での「兄弟への忠告」の場面です。
《「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。》
とあります。
しかし、弟子たちに対して「教会」と呼ばれている集団に指導者や監督者が考えられているわけではなく、そこには信仰の仲間がいるだけであります。
イエスは、ご自分に依存したままの弟子たちではなく、自立した「教会」としての弟子集団へと教育しておられます。
その心は、互いに愛し合いなさいであり、赦しなさいでありましょう。
その意味で、イエスは監督者がいる会堂ではなく、信仰共同体としての「教会」を目指しておられたように思われます。
キリストを信じた人々について、使徒言行録はすでに2章42節で、聖霊降臨後、間もないこととして記録しています。
《彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。》
と、初期の教会の姿が紹介されています。
「教会」という表現が多用されるのは、福音書を書いたルカによって書かれた使徒言行録ですが、それ以前に、パウロによって書かれた手紙全編にありました。
使徒言行録で初めて「教会」という言葉が出てくるのは5章に入ってからですが、これは4章32節からのくだりで、キリストを信じた者たちは持ち物を共有していましたが、自分の財産をごまかした夫婦への神の罰とも思える出来事に遭遇した時の記録で、
《教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。》
と、キリストの信仰者を総じて「教会全体」と記されています。
次に「教会」と出てくるのは使徒言行録8章1節であり、キリストを信じる者として初めての殉教者となるステファノの出来事の直後です。
《その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。》
とあります。
キリスト教会の本山であるエルサレム教会への言及がありますが、同時に「サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし」とあるように、「家の教会」と言われるような中心的な信徒の家でも宣教が行われていたことがうかがえます。
しかし、何ということか!迫害者サウロがキリスト信仰へと改心する出来事があり、彼は伝道者パウロへと転身するのです。
こののち、使徒言行録で「教会」と記録されるのは9章31節、
《こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。》
と、教会の成長が記録されています。
そして、使徒言行録11章25節に至り、
《それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。》
と伝えられています。
ユダヤ以外のアンティオキア教会の設立であり、キリスト者という生き方が世界基準で確立した記録です。
最後に、伝道者パウロが最初に書いた手紙と思われます、テサロニケの信徒への手紙から、パウロの言う「教会」について見てみましょう。
Ⅰテサロニケ1章1節を見ますと、
《パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。》
と始まります。
パウロは、自分が建て、育てた信仰共同体に「教会」と呼びかけます。
その意味で、ローマの信徒への手紙だけは、パウロがこれから出かけて行く伝道地でしたから、
ローマ書1章7節では、
《神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。》
というように、まだ教会として形作られていない人々に対しては「教会」ではなく、「ローマの人たち一同へ」と書くのです。
先ほどの、Ⅰテサロニケに戻りまして2章14節を見ますと、
《兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。》
と語っており、
Ⅱテサロニケ1章4節に至っては、
《それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。》
と語り、パウロの言う「教会」とは、迫害と苦難の渦中にあっても、忍耐と信仰によって生かされている共同体であることが、教会であることとして確かめられています。
「教会」にとっての喜びとは、キリストの福音を・その死と復活を共有することでありましょう。
また、私たちにとっての教会は、忍耐と希望を共有することであります。
パウロはローマ書12章15節で語ります。
《喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。》
と。
近年、カトリック教会や聖公会との対話の中で、あるいはNCCという日本のプロテスタント教会の協議会の中で提唱されていることは、この時代に在って、教会は「悲しみの共同体」として連帯していこうと呼びかけられています。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます」
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