2026.3.22説教「イエスの涙」

四旬節第5主日

「イエスの涙」

 

ヨハネ11章32-44

◆ラザロの死

 11:1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。

 11:2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。

 11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。

 11:4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

 11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。

 11:6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。

 11:7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」

 11:8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」

 11:9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。

 11:10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」

 11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」

 11:12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。

 11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。

 11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。

 11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」

 11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

 ◆イエスは復活と命

 11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。

 11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。

 11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。

 11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。

 11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。

 11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

 11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、

 11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

 11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

 11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 ◆イエス、涙を流す

 11:28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。

 11:29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。

 11:30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。

 11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。

 11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。

 11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、

 11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。

 11:35 イエスは涙を流された。

 11:36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。

 11:37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 ◆イエス、ラザロを生き返らせる

 11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。

 11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。

 11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。

 11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。

 11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

 11:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。

 11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 11:45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。


 「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

本日与えられました日課は、「ラザロの復活」にまつわる話です。

この箇所の一部は2024年11月の召天者記念礼拝でも読みました。

ここにはイエスが涙を流される場面が書かれています。

イエスが涙を流される場面は福音書では二箇所、本日のルカ11章35節と、ルカ719章41節です。

 

まず32節で、「マリア」という名前が出てまいりますが、この人はイエスの母とされたマリアではございません。

マルタという姉とラザロという兄を持つ、マリアという名の人でありました。

マリアの兄ラザロが病死し、その葬儀の場面が、今日読みました福音書の言葉です。

11章35節の言葉に、

「イエスは涙を流された」

とあります。

イエスは、なぜ涙を流されたのでしょうか。

聖書の伝承によりますと、この後、イエスはラザロが葬られた墓を開けさせ、「ラザロ、出て来なさい」と呼びかけ、死人が復活するという奇跡を起こされます。

いくら聖書とは言え、イエスが人を復活させる場面は、ここだけが証言する出来事です。

「墓を開けよ」というイエスに、姉のマルタが「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と「ことわり」を言う場面は、死のリアリティが迫ってまいります。

 イエスは、涙を流されると同時に、2度心に憤りを覚えておられます。

悲しくも腹立たしい、悲しいほどに腹立たしいとも受け取れるイエスの心情が描かれています。

 このことから、イエスは悲しくて泣いているのではなく、何事かに憤っておられることがわかります。

 それは「死」そのものに対する憤りでありましょう。

人々がラザロに抱いていた夢を中断し、絶望させている死。

人生のすべてが死で終わりであるかのように思わせ、人々から希望を奪い去っている死。

イエスの憤りは、「死の暴挙」に対する憤りでありましょう。

死に、人々を絶望させることは許されてはいない。

死に、人から希望を奪うことは許されてはいないのです。

本日の箇所の直前、11章4節でイエスは、

「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」

と語られています。

「神の栄光」とは、神の心が現れることを指しています。

その通り、イエスはラザロの復活を通して、「死の暴挙」を許さない神の心を示されました。

神が人の命を尊び、慈しむことを見せてくださったのです。

 聖書の語る「神の愛」は、「慈しみ」と呼ばれるものです。

「慈しみ」とは、現代で言う「愛」という言葉の古風な言い方です。

しかも、慈しみは愛よりも深い意味を湛えている言葉です。

慈しみは見えるものだけに限らず、見えないもの、喪ってしまったものに対する愛をも含んでいます。

すでに失われたもの、もう元には戻らないものへの愛と憐れみが、慈しみというものです。

失われつつあるから、より愛しく思えること。

喪われてしまったから、より深く惜しまれること。

人の心に湛えられている、このような思いが慈しみというものでありましょう。

 

 さて、本日の日課を四旬節で読むべきもう一点は、11章17-27節でありましょう。

 ここには、27節にマルタよるイエスへのメシア告白が記されています。

 先日の礼拝の日課で真昼に井戸に水を汲みにくる「サマリアの女性」の話がありました。

 井戸でのイエスとの出会い、さらにイエスがメシアかもしれないとの確信が記されていました。

 その際、ヨハネ福音書が伝えるメシア告白がサマリア人であったことを申し上げました。

 加えて、ヨハネ福音書が伝える「メシア告白」する唯一のユダヤ人が、ラザロの姉妹であるマルタでした。

「メシア」とは、どなたか。

 メシアは旧約聖書のイザヤ書が語る、神のひとりご・救い主を指しています。

 マタイ福音書1章の系図の最後には次のように書かれています。

 マタイ1章16節、

《ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった》

とあります。

「メシア」は旧約聖書が書かれたヘブライ語読み、これを新約聖書のギリシャ語に訳すと「キリスト」となります。

「メシア告白」で知られている箇所は、マタイ福音書16章16節、《シモン・ペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた》

と記されています。

 

 ヨハネ福音書に戻りますと、ラザロの葬儀に訪れたイエスは、23節で、マルタに「あなたの兄弟は復活する」とおっしゃっています。

 そこで、マルタは次のように答えています。

《マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。》

 このマルタの「復活することは存じております」から、マルタの信仰的背景がうかがえます。

 当時のユダヤ教徒と言えども、ユダヤ教の中でも教えの違いはあり、神殿での犠牲を捧げるサドカイ派には復活信仰はなく、ファリサイ派と呼ばれるグループが復活信仰を説いていました。

 マルタはファリサイ派の教えを聴く機会があったのでしょう。

「存じております」からは、そのようにうかがえます。

 25節、

《イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」》

とイエスは語ります。

 特に、マルタに向き合って「信じるか」と問われています。

 この問答で重要な事柄は、「知っていること」が「信じること」となること、それによって「将来のこと」が「現在のこと」となることと言えます。

 イエスがおっしゃった「わたしは復活であり」とは、死の向こうにある永遠の命のみならず、神との関係に破れ、人間関係にも破れた者にも、この地上でキリストによる新しい命に生きることをも含む、「復活である」ということが語られています。

 このイエスの問いに促されて、マルタは単に知っていた事柄から、信じることへと引き出されています。

27節、

《マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」》

 マルタは、この「メシア告白」によって、将来信じるべき神の元での永遠の命を、今を新しく生きる力として受け取っています。

マルタの「メシア告白」ののちに起こされた「ラザロの復活」は、マルタにとってイエスが復活を司る方としてのしるしになったことでしょう。

 しかしながら、ラザロの復活は限りある命への復活に留まるものです。

 イエスの与える復活は、限りない命への復活を約束するものです。

 この「限りない命」を生きることが、死の向こうの将来のことに限らず、信じることによって今のこととなること、信じることで新しく生かされ、今を永遠の命に生きることへと招くものであると受け取ることが私たちの信仰でありましょう。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」