2026.4.26説教「敷居」

復活後第4主日

「敷居」

ヨハネ10章1-10節

 10:1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。

 10:2 門から入る者が羊飼いである。

 10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。

 10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。

 10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

 10:6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

 10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。

 10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。

 10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。

 10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。


「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

本日は、ヨハネ10章9節の御言葉、「わたしは門である」とのイエスの言葉に注目しつつ聴いてまいります。「イエスは門である」という御言葉の意味を考えてまいりましょう。

何事かを始めることを「入門」と申しますが、信仰や教会もまた「入門」と捉える人々も多いことと思います。現に、聖書入門書やキリスト教ハンドブックは改訂され続けており、息の長いベストセラーとなっています。 私自身も神学校の受験勉強のために、文庫本で「聖書の読み方」というガイドブックを手掛かりとして、まずは聖書通読、2カ月かかって旧約聖書の創世記から新約聖書の黙示録までをノートにまとめながら読み通すことから始めました。聖書通読をして気づかされることは、「聖書の流れ」というものが良く解ることです。聖書には、ちょっといい言葉は無数にありますし、たった一言でも御言葉と出会えれば、そこには私たちが生涯生かされるだけの力があります。これも素晴らしい体験なのですが、一つ残念なことは、ここには「歴史」や「流れ」がありません。聖書の言葉に歴史を感じるということは、私の人生に神が深く関わっておられることを感じる体験に通じるものです。牧師となった者であっても、聖書を読み通した者は多くはないことでしょう。神学校から7か月間の宣教研修生を3年にわたって引き受けたことがありましたが、聖書通読という課題を果たせた者はいませんでした。教会ではすでに幾人かの方は何回も通読した経験がおありのことでしょう。まだの方々はぜひ体験していただきたいことです。

 教会入門、信仰入門と言いましても、「教会は敷居が高い」とよく言われます。ある教会に赴任して3カ月ほど経った頃、「随分教会の敷居が低くなったねえ」という感想をお聞きしました。さて何か変わったかと振り返りますと、そこでは礼拝堂中央の通路側には椅子に結婚式の際に張られるロープが付けられ、牧師と奉仕者だけが通る設えがありましたが、それを撤去し子どもたちや来会者が自由に行き来するようになったぐらいなのですが、このムードが地域へと流れ出して欲しいなと願いました。近年、社会の流れもあって、バリアフリーやジェンダーフリーの課題に取り組む教会が増えてまいりました。バリアフリーというのは段差を少なくし、障がい者や高齢者が安全に過ごせる環境を整えることです。かの教会で早々に分厚い絨毯を剥がしたのは、つまづくことの予防のためでもありました。また、「入門」する上で「下駄を預ける」と申しますが、教会では「靴を脱ぐ」という従来の習慣が敷居を高くし、なじめないなと思った時にすぐに逃げ出せないことへの抵抗感を与えていたようです。これもバリアフリーに伴い土足のままで礼拝に参加できるスタイルとすれば、新来者の警戒心を和らげることにもなるのです。ジェンダーフリーと言いますのは、男女差を強調しないということで、性的少数者の方への配慮でもあります。受付での男女別記名をやめ、男女別のトイレのみならず誰でも使えるトイレを備えるということも将来への課題です。

 もう随分昔のことですが、とある教会へ「入門」しに来られた初老の紳士がおられました。極めて几帳面で礼儀正しく、「入門」されてからは毎週欠かすことなく礼拝に出席なさっていました。 お聞きしますと、妻が病気で、もしもの時に託す宗教が欲しいと、キリスト教を選ばれたということでした。意志も固く、前向きな姿勢で来られていましたので、礼拝で語るこちらも自然と力が入りました。ところが3年も忠実にいらっしゃっているにもかかわらず、一向に洗礼の気運が満たされないのです。ある日、教会でバーベキューをしつつ交わりをしていたときに、「ありがたい」と思った経験はおありですか?と尋ねてみたところ、すぐさま「ありません」とお答えになりました。想定外の答えに私がたじろいでおりますと、その理由を話してくださいました。「小さい時から人に迷惑をかけないように育てられましたし、そのように心がけて来ました。誰よりも一生懸命働きましたし、誰に対しても親切にしてきました。いつも人を助ける立場でしたから、『ありがとう』と言われることばかりで、自分がありがたいと思う経験はしませんでした」と。なるほど、忠実な教会生活をなさってきたけれども洗礼に結びつかなかった理由はこれだったのかと、ようやく理解できました。しかし、皮肉なものです。一生懸命な人ほどありがたいと実感する機会が少ないとは。むしろ、怠惰な生活をしていながら、人から助けてもらうことの多い人の方がありがたさを感じているとは。「ありがたさ」を感じることが信仰と深く結びついていることや、「感謝」を伝えて行くことがどれほど難しいものかを改めて教えられる出会いでありました。そして、感謝を通して、生きること、生きなければならないことが転じて、生かされていることとなるときに信仰が始まり、人生に新しい流れが起こるのだと知らされました。私たちに物事の捉え方を転じさせ、人生に新しい流れを与えてくれるものが、一言の聖書の言葉との出会いであろうと思います。

 さて、本日は、イエスの「わたしは門である」との御言葉を聴いています。イエスを「門」とする教会と私たちの姿勢を考えてまいります。「門」を英語に訳せば「エントランス」という言葉に当てはめることができるかと思います。かつて牧師となった頃、受け持っていた教会でアメリカからの短期宣教師を迎えたことがありました。彼女から聞かれ、教えられたことですが、アメリカのルーテル教会では、どこに行っても「サーバンツ・エントランス」(Servant’s Entrance)という言葉が教会に掛けてあるというのです。そして、「なぜ日本のルーテル教会には掛けてないのか」と質問されました。とは言え、私はその言葉が教会に掲げられていることについて見たことも聞いたこともありませんでしたから、「ない」と答える以外はありませんでした。ここにありますのがその言葉です。サーバンツ・エントランスを、私が無理やり「奉仕者の門」意訳したものです。彼女はダコタの出身で、アメリカのルーテル教会にはどこに行ってもある、と言っていましたが、その実際は私にはわかりません。

そこで問題です。この言葉が、教会のどこに掛けられているのでしょうか? そして、皆さんなら、どこに掛けるでしょうか?

考えるヒントとして、イエスは「わたしは門である」とおっしゃいましたが、イエスの門とは、教会のどこのことでしょうか? 道路沿いの教会の門、教会の建物の入口、礼拝堂の入口など、それぞれの意味を考えます。アメリカの教会での実際は、礼拝堂の内側の鴨居、礼拝堂から出る時の扉の上、ということです。教会の建物から出る時の内側の鴨居や、教会の門の内側に置いても同じ意味かと思います。これまでの教会では、礼拝堂から出る時の扉の上に掲げていました。初めて見た人は「やられたあ!」と声を発しておられました。教会に入る時には見えなくて、出て行くときに見える言葉。礼拝堂から出る人は、また教会から帰る人は、そして、教会の門から出る人が目撃する言葉として「奉仕者の門」を掲げてまいりました。また別の方は、この「奉仕者の門」という扉から帰りつつ、「やっと、この日が来たか」とおっしゃっていました。どういうことかとお聞きすると、「これまでは信徒を教会に奉仕させていたが、信徒は社会に奉仕するために遣わされるものだ」と。その通りです。教会の外に向けて掲げるのではなく、わざわざ教会の扉の内側に掲げている意味は、そこは教会からの出口ではなく、奉仕者として社会に送り出される入口であるということです。イエスが「わたしは門である」と語られているのは、イエスを通って人々に仕えるよう派遣されること、イエスに送り出されていく入口であるということです。生きなければならない人生が生かされる人生へと変えられますように。人を助け、人に仕えてばかりの人生が、奉仕者として送り出される人生に変えられますように。そのように私たちを突き動かし、送り出す聖霊と力ある御言葉に出会えますように。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」