2026.5.10説教「聖霊の降る教会」
復活後第6主日
「聖霊の降る教会」
ヨハネ14章15-21
◆聖霊を与える約束
14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
14:20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように」
本日与えられましたヨハネによる福音書14章15-21節の御言葉は、聖霊という神の姿について、キリストが紹介しています。
キリスト教の神とは何者か?
この歴史的な問いに対して、聖書は旧約聖書の時代から「父と子と聖霊」という3つの働きを通して、神の姿を提示してまいりました。
創世記では、天地創造以前から創造主と神の霊が混沌とした世界の初めを包み、保っておられます。
御子については、イザヤ書が7章でインマヌエルのしるしとして約束の御子の誕生を告げ、53章で苦難のしもべとして、御子の生涯を預言しています。
神なる父とは創造主、聖霊とはすべてを包み込む力、御子とはインマヌエル・神が共におられるしるしと示されて来ました。
次週に復活のキリストが昇天された「主の昇天主日」を控え、今週はキリストが「わたしは行くが、聖霊が来る。そして、わたしも戻って来る」という内容の約束を語っておられます。
聖霊とは何なのか、来るとどうなるのか、私たちはどうするのか、という流れで御言葉を聴いてまいりましょう。
まず、14章15節を見ますと、
《「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。》
とあります。
これは聖霊の話をするにあたり、前提となる呼びかけでありましょう。
キリストは「わたしを愛しているならば」とおっしゃいます。
このように聞きますと、愛するか否か、愛の質が私たち人間に問われているかのようですが、愛とは人と人、神と人との関係です。
関係ですから、どちらかの責任が問われるものではなく、また、私たち自身の中に作り上げる力のようなものでもありません。
お互いの間を見つめ、つながりを大切にし、お互いの間に芽生えた気持ちを育てていくことです。
これが、愛です。
続く「わたしの掟」とは御言葉であり、キリストとの約束のことですから、「キリストにつながっているならば、御言葉を尊び、御言葉によって生きる」という意味になるでしょう。
さて、本題の聖霊についての話が始まります。
16節、
《わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。》
と始まります。
キリストによれば、「わたしは去るが、別の弁護者が来る」とおっしゃっています。
「別の弁護者」であるのだから、キリストご自身も「弁護者」であるとも言えます。
17節によれば、
《この方は、真理の霊である。》
と、呼び名が紹介されています。
すなわち、聖霊のことです。
ところで、まず一般的な「弁護者」という者を考えてみましょう。
いわゆる「弁護士」という職業が、これを現わしているかと思われます。
弁護士は、依頼者である一人、ないしは一つの団体に対して一人の弁護士が付くものです。
弁護士がチームでつく場合もあります。
そして、弁護士の務めは、訴える人と訴えられた人の仲裁をするわけではありません。
あくまでも、訴える側につくか、訴えられた側につくかの、いずれかであります。
双方が弁護士を立てての言い分を聞き、判定や仲裁をするのは裁判官の役割です。
イエスのエピソードにもあります。
ルカ福音書12章13節、
《群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」》
とありました。
キリストは裁判官や調停人ではなく、弟子たちにとって、あくまでも最初の弁護者であると言えるでしょう。
それは、最初から最後まで徹底的に弟子たちの側に立って、神に対して彼らの弁護をしてくださるのです。
また、次のようなエピソードもあります。
マタイ20章23節、
《イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」》
とあるように、裁判官あるいは審判者はキリストご自身ではなく、父なる神であることが示されています。
キリストが神に対して、私たちあるいは私自身の弁護をしてくださったように、私たちも誰かの弁護をする役割や立場となることも有るでしょう。その場合に気を付けるべき動き方・弁護人としての立ち方を考えてみましょう。
8年前にルーテル教会の全国総会において、新しく教会の機能として、ハラスメント防止規定が設けられました。
ハラスメントとは、嫌がらせなどの迷惑行為のことです。
ハラスメントとして人間関係の改善が図られる以前は、一人の人が人間関係を取り持って、仲裁や解決へと取り組んでいたように思います。
うまくいく場合もありますが、そうでない場合もありました。
以前務めていた教会では、21年間かけても解決できない誤解による恨みがありました。
残念なことです。
今社会的に取り組まれているハラスメント防止活動では、一人の人が訴える人と訴えられた人を取り持ち、仲裁するという関わりは致しません。
むしろ、ハラスメントの二次被害というものを避けるためにも、取り持つことは避けるべきなのです。
初めにAという人の相談を受けたならば、最後までAさんの立場に立って相談に臨むのです。
同様に、別の人がBさんには相談者として最後まで寄り添うのです。
そして、両者の言い分の事実確認をし、周囲の人々からの聞き取りをして、事の顛末を判断するのは両者ともに利害関係のない第三者委員会なるものが出来事の判定をするのです。
これが、ハラスメントの解決方法です。
ですから、以前は牧師職というものは関係を取り持つことも多々ありましたが、現代の牧師職では聴くということに徹するか、どちらか一方の側にしか立てない仕組みとなっています。
この意味から見ても、キリストの弁護者としての使命もまた、徹底して人間の側に立ち、神へと弁明してくださっていると言えるでしょう。
そしてまた、キリストとのしばしの別離のあと、送られてくる真理の霊も、キリストによる弁護を引き継ぐ方であるのです。
17節の続きでは、
《この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。》
と、いくつかの事柄をキリストが教えておられます。
「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない」とは、聖霊の守備範囲、活動領域が書かれています。
それは、今まさにキリストが別れを告げている弟子たちのことであり、この世は受け入れないので、聖霊の活動は信仰共同体においてということになります。
(さらに、世界規模での訴訟で聖霊はキリスト者の側に立ち、神に弁護するということを福音書ヨハネは想定しているのです)
「あなたがたはこの霊を知っている」とありますが、むしろ、弟子たちや私たちこそが、聖霊に知られているということでありましょう。
「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」と、霊の所在を私たちの「内」と言われていますが、これは私たちに命を与えた神の息吹であり、人を人たらしめている霊を指すものと受け止めるのがふさわしいでしょう。
聖霊とは何者か。
聖霊とは、教会を整え、導き、社会へと押し出していく霊です。
聖霊の働きについて、福音書の「荒れ野の誘惑」の出来事で様々な特性が語られています。
それらは、マルコ福音書は「送り出す霊」、マタイ福音書は「導く霊」、そしてルカ福音書は「引き回す霊」と語ります。
私たちは霊の荒波に翻弄されながらも、この霊は神を知っている、キリストを知っている、そして私たちをも知っている霊です。
私たちのこれまでを知り、これからをも見通している霊です。
私たちの祈りを引き出し、私たちにキリストを証しさせる霊です。
御言葉の送り手であり、御言葉による出来事の起こし手であるのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます」
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