2026.07.12説教「種まく人」
聖霊降臨後第7主日
「種まく人」
マタイ13章1-23
◆「種を蒔く人」のたとえ
13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
13:2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。
13:3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
13:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
13:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。
13:8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
13:9 耳のある者は聞きなさい。」
◆たとえを用いて話す理由
13:10 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。
13:11 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。
13:12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
13:13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
13:14 イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。
13:15 この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
13:17 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
◆「種を蒔く人」のたとえの説明
13:18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
13:19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
13:20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、
13:21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
13:22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。
13:23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
本日の日課は二箇所に分かれている。
一つ目は1節からの「種を蒔く人のたとえ」であり、二つ目は18節からの「種を蒔く人のたとえの説明」である。
これだけでは「種蒔き」がなにをたとえているのかは分からない。
そこで日課としては飛ばされている11節を見てみると、「天の国の秘密を悟る」という説明が出てくる。
逆に、ここを飛ばすと何のたとえかは分からぬままとなる。
なるほど、マタイ福音書13章はすべて「天の国」についての「たとえ」であり、ここから「天の国」について聴くこととなる。
そこで「天の国」について、初めに理解しておきたいことがある。
「天の国」とは、いわゆる「天国」のことではない。
これにはマタイの事情があって、ユダヤの古い慣習に「神の名をみだりに唱えてはならない」という掟がある。
マタイは掟を重んじる人々の心情を尊重し、「神」と表現する代わりに「天」という言い方をしたのである。つまり、マタイの言う「天の国」とは、「神の国」のことを指している。
では、「神の国」とはどこか。
もちろん、いわゆる「天国」のことだけではない。
神の創造された世界が「神の国」である。
それは、時間的長さで言うならば、私たちの生まれる前の世界と、私たちが生かされている今、そして、死して後に神に引き受けられて行く世界を含むものである。
また、高さで考えるならば、天の極みから、キリストとして「よみにくだり」、塵の上に立たれたという地の底まで神のものである。
つまり、創造主なる神が創られなかった世界は存在しないわけで、すべては神の国である。
さて、与えられた箇所の内容を見てみると、様々な土地に蒔かれた種の行く末が書かれている。
前半では、道端で鳥に食べられてしまう種、石地に落ちて日照りで枯れた種、茨の間で伸び悩む種、そして、良い地に落ちて実を結ぶ種。
後半では、さらに説明が加えられている。
まず、「種」とは「御国の言葉」、すなわち「御言葉」のことであるとされている。
そして、道端の種とは、御言葉を悟らず、奪われてしまう人。
石地の種とは、根がないので艱難によってつまづいてしまう人。
茨の中の種とは、思い煩いによって実らない人。
良い土地に蒔かれた種とは、御言葉を悟り、実らせる人。
ここまで丁寧に説明されると、もう読者としては、「私はどんな土地?」と気になって仕方がない。
だが、果たして私たちは説教を通して、「良い土地になる方法」や「実を結ぶ人となる方法」を聴きたいと思うであろうか?
そんな話を聴きたいとは誰も思ってはいない。
では何を聴きたいのか。
それは福音である。福音とは、キリストの訪れであり、私たちの生き方ではない。
そこで、イエス様の語られたたとえをよく読み直してみると、13章3節は、
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」
と始まっている。
また、一三章一八節では、
「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい」
と語りかけておられる。
その通り。
この「たとえ話」は、「蒔かれた種の育ち方」や「種が蒔かれた土地の状態」の話ではない。
あくまでも「種を蒔く人」のたとえであり、しかも後半では、「種を蒔く人のたとえを聞きなさい」とまで強く呼びかけられている。
見るべきは、種の成長や土地の様子ではなく、「種を蒔く人」に注目し、この方をして「神の国」を知らされるのである。
「種を蒔く人」とは、どのような人であろうか。
もちろん、「種を蒔く人」の務めは、種を蒔くことである。
時が良くても悪くても種を蒔く。
もし種を蒔かぬことがあるならば、もはや「種まく人」ではない。
何よりも、自分自身の手につかんだ種が、必ず芽を出すという確信に満ちて種を蒔くのである。
これが「種を蒔く人」の真の姿である。
「蒔かれた種」は「御言葉」であるから、「種を蒔く人」がキリストであることが分かる。
イエスは、御言葉という種が、聴く者において必ず芽を出すことを確信して蒔かれ、土地に例えられる「人」を選ぶようなことはない。
蒔かれる「御言葉の種」に対する確信。
蒔かれる土壌としての「人」への期待。
こうして、「種まく人」の確信を聴いてもまだ、自分はどんな土地だろうかと気になるだろうか?
神は「種まく人」であると同時に「農夫」でもある。
イエスご自身が、ヨハネ福音書15章1節で、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と、神について紹介している。
この農夫としての神の手が「人」に触れるならば、どんな不毛の大地も耕され、何ものをも実らせることができる土地と耕される。
この御手の業ゆえに、キリストは確信をもって御言葉を語るのであり、人は御言葉の芽生えに信頼をもって聴くのみである。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます」
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