2026.07.26説教「見つけた」
聖霊降臨後第9主日
「見つけた」
マタイ13章44-52節
◆「天の国」のたとえ
13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
13:47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。
13:49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、
13:50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
◆天の国のことを学んだ学者
13:51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。
13:52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
さて、本日の福音は、聖書日課によれば3週にわたって読んでまいりました、マタイによる福音書13章の、イエスによる「天の国」、すなわち「神の国」についての一連のたとえ話による最後の説教です。
マタイ13章44節、
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」
と始まります。
本日は、この、畑に宝が隠されているたとえに注目してまいります。
このたとえに登場する「宝を見つけた人」は、雇われている労働者でありましょう。
なぜならば、その畑の持ち主ではないからです。
この労働者は、畑で宝を見つけます。
そして宝はそのまま隠しておき、法的には問題ない方法で、その畑を買います。
ただし、法的に問題がなくても、道徳的にはどうかという点は、ここでは取り上げられてはいません。
(「不正」については、ルカ16章、18章が取り上げています)
この極端に短い「たとえ」で重要な役割を果たしているのは、他のすべてを圧倒する、かつて聴いたことのない発見です。
そのような「宝」に遭遇したこの人は、直ちに出かけて行って、他の持ち物すべてを売り払ってまでも、畑を手に入れています。
決定的なことは、見つけた人がその大きな「喜び」から逃れられず、もはや他のことは考えられないということです。
続く13章45-46節のたとえも同じです。
46節、
「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」
とあります。
この商人も、自分の持っていた物すべてを売り払うという、大げさ過ぎる表現によって、他の何ものとも比べようもない、この真珠の素晴らしさと、それによって自分に起こされた行動がふさわしいものであったことが語られています。
以上、これら二つのたとえは、神の国の大きな喜びを見出すことについて伝えています。
このように、宝を見つけた人の一連の行動を呼び起こし、決断させている力の源は「宝」と「真珠」というものであるのですが、これらの「宝」と「真珠」がそれ自ら行動することはなく、単に受動的なものであり、人によって発見されたものに過ぎないのです。
よくよく聴き取りたいことは、
すべてを売って発見した宝を手に入れた労働者や商人たちが、主役なのではありません。
彼らにすべてを捨てさせた「宝」と「真珠」から、彼らに決断と行動を起こさせる力が出ていることが大切です。
労働者は畑が自分の所有となる前に「宝」を発見したのであり、また、商人も手に入れる前に「真珠」を発見したのです。
見つけた宝によって、行動が起こされ、人生が変えられたのです。
このように、神の国を見出した人には、その「喜び」によって行動が起こされます。
それは、イエスの呼びかけによって弟子とされた者たちが、舟、網、家、徴税の仕事を捨ててまでも主に従った、という結果をもたらしたのと同じです。
ゆえに、世界を包み込もうとする神の国の出来事は、同時に一人一人の事柄でもあり、その一人の決断が世界へと行動を起こすこととなるのです。
私一人のことでは世界は何も変わらないように思えますが、私も世界を形作っている一人です。
私が変わることによって、私の人生が変わります。
私が変わることによって、社会や世界が変わり始めるのです。
私が神の言葉によって変えられることは、神が私を通して世界を新しく作り変えておられるということです。
この「神の国の宝を見出した者は」というたとえは、弟子たちに決断と行動を促す、キリストの真実による御言葉なのです。
このように、信仰者の人生に出来事を起こす御言葉に出会えることは素晴らしい。
神に向かって心を高く上げるクリスチャンにとっての喜びとなり、大いに励ましとなります。
現在、インターネット畑で御言葉の宝探しをし、多くの人々が思いがけない発見をしたのではないでしょうか。
宝を掘り当て、真珠を発見したことでしょう。
しかし、世の中に宝だけが手に入る話などはありません。
そこで、信仰の原点を忘れないでいたいのです。
信仰は宝探しの旅ではありません。
信仰は失ってしまった自分探しでもありません。
聖書には、神があなたを探しておられると書かれています。
本日の福音は、「神の国」の畑に隠された「宝」とは、神にとっての人間であり、キリストにとっての「あなた」であることをお伝えしたいのです。
それゆえ、神は宝の隠された畑である「神の国」、すなわち私たちの生きるこの世界のために、御子を差し出して「宝」を手に入れたのです。
失った人間という神にとっての宝を見出し、罪と死のものとなっていた私たちを、御子の十字架を罪の代価をして支払う形で、私たちとこの世界を神ご自身のものに取り戻してくださったのです。
神によって私たちは、神ご自身の「宝」とされたのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます」
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