2026.08.09説教「底を知る」
聖霊降臨後第11主日
「底を知る」
マタイ14章22-33
14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
14:15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
14:16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
14:18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、
14:19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
14:20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。
14:21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。
14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。
14:23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
14:24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
14:27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
14:31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
14:32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
本日のマタイによる福音書14章は、洗礼者ヨハネの死、五千人での食事、そして湖の上を歩く記事へとつながります。
2年前の礼拝で、ヨハネ福音書6章から同じ主題が与えられました。
そこでも五千人での食事、そして湖の上を歩く記事へとつながっていました。
これらはマルコ福音書を踏襲した編集ですが、マタイとヨハネ、違う目的と背景を持つ二人が、同じ流れであることは興味深いことでもあります。
私たち人間の苦悩というものは、どこから来るものでしょうか?
最も大きい要因、あるいは究極的な難題とは、「死」と言えるのかも知れません。
そこには人との別れ、今生との別れ、様々なものを手放さなければならないことを経験するからです。
他方、生きることが死ぬということよりも苦しいと感じている方もおられます。
そのような状況におかれている方は、生きている以上、死というものは想像する以外にありませんが、死ですべてが終わるという印象から、生きている限り背負わなければならない苦しみよりも、死の方が安らかに思えるのかも知れません。
生きる上で人を苦悩させていることとして考えられるのは、思いがけない出来事との遭遇であるとか、生まれつき背負っているものであるかを問わず、今のこの苦しみが「いつまで続くのかわからないこと」と、「これからどれほど重く(ひどく)なるのかわからないこと」の二つであろうと思われます。
「先が見えないこと」と、「底を知らないこと」が、人を苦しめます。
キリスト教信仰から申しますと、イエスは十字架での死を通り、よみにくだり、そして復活されたキリスト・救い主です。
死の底を知り、死の先を知る方です。
「底」と「先」を知るお方であるからこそ、私たちは信仰によって、キリストとなら耐えられるし、キリストに信頼する人生には安心が約束されるのです。
さて、本日の御言葉は、マタイ14章22節で「それからすぐ」と始まります。
その出来事とは、直前に書かれています「五千人での食事」のことです。
男性だけでも五千人でしたから、女性や子どもたちも含めると、おびただしい人数での食事が行われたことがうかがえます。
イエスは、弟子たちを休ませるために強いて舟に乗せ、群衆の世話から解放されました。
イエスご自身も群衆を解散させ、一人で山に登られ、夕方となっても祈っておられたとあります。
イエスはしばしばお独りになられ、祈る時を持たれています。
しかし、弟子たちには独りとなることはさせず、少なくとも二人でいることを求められました。
「祈る」ということ以上に、「祈られる」ということを体験するためではなかったかと思います。
他方、湖上の弟子たちは風と波にさいなまれ、向こう岸にもたどり着かず、夜通し苦闘を強いられます。
弟子たちにあっては、「夜通し」祈りつつ、終わりの見えない状況に苦悩していたことでしょう。
夜明けとともに、イエスは湖上を歩いて弟子たちのところへと向かわれました。
すると、弟子たちは湖上を歩く人影を「幽霊だ」と叫び声を上げて恐れます。
もはや祈る心も吹き飛んでいます。
イエスは恐怖におびえる弟子たちを放ってはおかれず、「直ちに」、「安心しなさい」(直訳:勇気を持ちなさい)、「わたしだ」と語り掛けます。
イエスの「わたしだ」という御声を聴くことほど、弟子たちを安堵させるものはないでしょう。
すると、何を思ったかペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言い出す。
「来なさい」というイエスの呼びかけで、水の上に一歩踏み出すペトロですが、風におびえて沈み、「助けて」と叫びます。
ここでもイエスは「直ちに」手を伸ばしてペトロを捕らえ、「なぜ疑ったのか」と問うておられます。
ペトロの恐れは、「底を知らない」という自分の認識の欠如から出る恐れでありました。
イエスに対する疑い以前に、自分の確信を疑ったのです。
その時、イエスはペトロに呼びかける、「なぜ疑ったのか」と。
ペトロの忘れえぬ経験でありましょう。
人間の心というものは、所詮浅はかなものだとは思いません。
深く心をえぐられるような悲しみによってでさえ、人間としての深みが与えられます。
また、身を削り、身を裂くような人との関わりによって、人としての幅が拡げられて来たように思います。
けれども、聖書は先を見通せる人間になることを求めてはいませんし、それは出来ることでもありません。
イエスは、人々に呼びかけます。
特に、堅実に生きようとする人々に呼びかけます。
「限りのない命ならば、いかに生きるか」と。
この呼びかけは、今の継続ではありません。
自らへの確信ではなく、引き受けてくださる神への信頼です。
キリストとの出会いによって新しく生きることへの呼びかけであり、限りない平安への呼びかけです。
「わかる」「できる」という確信には限りがあります。
それゆえ、人は一人では生きていけないのです。
私がわからなくなっても、私を分かっていてくれる友はどこにいるのか。
私ができなくなっても、私にしてくれる友はどこにいるのか。
私が祈れなくなっても、私のことを祈ってくれる友はどこにいるのか。
言うまでもなく、その答えは「教会」にあります。
だから、信仰は確信ではなく、委ねることの練習・トレーニングであるのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます」
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