2026.09.06説教「二人がいる」

聖霊降臨後第15主日

「二人がいる」

 

マタイ18章15-20

◆兄弟の忠告

 18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。

 18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。

 18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

 18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

 18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

 18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」


「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

 先月は、マタイによる福音書16章18節に出てくる「教会」という言葉に注目し、「教会とは何か」を考えました。

 そこで「教会」という言葉を用いられたのはイエスご自身によるのですが、4つの福音書中「教会」という言葉が用いられますのは2か所のみです。

先々週読みましたマタイ16章18節と、本日読んでおります18章17節だけです。

 まず、おさらいとして、16章18節では、次のように語られておりました。

《わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。》と。

 本日、「教会」という言葉が出てまいりますのは18章17節、

《それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。》

とあります。

 福音書では、ほかに「教会」という言葉は語られておらず、教会を規定する表現もありませんから、マタイによる福音書の16章18節が教会の基礎となり、18章17節がその展開ということになりましょう。

 もちろん、キリストの昇天後、弟子たちだけの時代となり、聖霊降臨の出来事をきっかけに始められたキリスト教伝道によって教会が生まれました。

その後の歴史的変遷と活動によって、教会という組織と神学が形作られていくことになります。

 

 福音書には「教会」とよばれる建物や働きとしては描かれておりませんが、教会のモデルとなったのは、ユダヤ教の「会堂」と呼ばれる「集まり」であったように思います。

 イエスが「教会」と語られた言葉は、福音書では「エクレシア」というギリシャ語が使われています。

これは建物を表す言葉ではなく、信徒の交わりを指して「エクレシア・教会」と語られたものでした。

 同様に、「会堂」という言葉は「シナゴーグ」というギリシャ語が使われておりますが、これも建物を指すばかりでなく、福音書を読みますと信仰共同体としてのコミュニティを指す言葉として使われています。

 イエスが語られた「教会」(エクレシア)を弟子たちに説明するにあたり、特徴的なことは、指導者、監督者、裁判官が描かれていないということです。

 兄弟が罪を犯したという深刻な状態において、まずは二人で話しなさい、と勧められます。

これは、意見される人の名誉が証人を立てずに行われることによって守られなければならない、ということです。

 キリストによれば、教会の本来の目標は、罪人を獲得することであり、それゆえ、あらゆる方策は救いを提供すること以外の何ものでもないということになりましょう。

「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」とは、このようなことであります。

 

 しかし、聞き入れない場合は、そこで、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」と勧められています。

これは、聞き入れない人に向かって、二人または三人で説得しなさいというものではありません。

これもまた、意見される人を守るものでもあります。

それは、意見する者が間違っているかもしれないということが警戒されています。

また、意見する者よりも適切な言葉が証人によってもたらされるかもしれないことも期待されています。

 それでも聞き入れない場合ですら、教会の指導者が登場することはありません。

見まわしても信仰における仲間がいるだけです。

そして、教会全体に対して、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」との言葉が語りかけられているに留まります。

 ルカによる福音書12章14節にあるイエスの言葉、

《イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」》

との御言葉が思い出されます。

 キリストが私の裁判官であるならば、私には希望を見出すことはできません。

しかし、イエスはおっしゃいます。マタイ福音書9章13節、

《『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」》

と。

 マルコ福音書も言います。2章17節、

《イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」》

とある通りです。

 また、「教会」という言葉と共に、16章も18章でも、同じ言葉があとに付け加えられています。

あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

というものです。

 これは教会がキリストから預かる使命について書かれておりますが、16章18節でペトロに託された「天の国の鍵」の権能というものでありましょう。

 天の国の鍵という働きについては、先日の箇所で学びました通り、天国に入るための鍵ではありません。

「地上でつなぐことは、天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる」とあるように、私たち教会が託された鍵とは、「福音という鍵」でありましょう。

 マルチン・ルターは宗教改革の際に次のように指摘しています。95個条の提題の第13条で「死に臨む人たちは、死によってすべてを支払うのであり、教会法規に対してはすでに死んだ者であり、それらの法からは当然解放されている」と発言しています。

 すなわち、教会は、精一杯罪と格闘し、罪に対して断罪しつつも、最後の審判の言葉と実行は神に委ねられていることが大事なところでありましょう。

 

 最後に、18章20節の御言葉から「教会」を考えてみましょう。

《二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」》

という御言葉は、教会の原点としてよく用いられます。

 御名によって集い、キリストがおられるところを教会と呼んでいます。

 まさに今、弟子たちと共におられるイエスの言葉であるのですが、あたかもすでに昇天されているかのように語られています。

 ここに弟子たちは、イエスの名によって集っています。

この御名のもとに集うところに、イエスご自身もおられるという、「キリストの臨在」ということが約束されています。

 ここには、教会という制度でもなく、教会の偉大さでもなく、聖なる場所であるということでもなく、聖職者による祝福でもなく、教会の見える成果でもなく、これらは何の役割も果たしてはいません。

 ただキリストの御名によって集うところに、わたしもいると、天に上げられるであろうイエスが約束されます。

 御名によるキリストの臨在の約束こそ、教会を教会とする要素でありましょう。

 キリストがおられるところ、赦しがあります。

キリストがおられるところ、愛があります。

キリストがおられるところ、信頼と期待があります。

これを教会と致しましょう。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます」