2026.09.13説教「帳消し」

聖霊降臨後第16主日

「帳消し」

 

マタイ18章21-35

18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

 18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

 18:23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。

 18:24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。

 18:25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。

 18:26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。

 18:27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

 18:28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。

 18:29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。

 18:30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。

 18:31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。

 18:32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。

 18:33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』

 18:34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。

 18:35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」


「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

 本日は、福音書の日課から御言葉を聴いてまいります。

 話の発端は、弟子のペトロがイエスに、罪を犯した者を何回赦せばよいかとの質問に始まります。

 イエスの答えは、7の70倍というものでした。

 7はすべてを表す数字ですから、その70倍とは何回であってもすべてということになりましょう。

 

 そこでイエスは例え話を語られます。

 天の国、すなわち神の国を例えた話です。

 本日のテーマとして、例え話の中の「帳消し」という言葉に注目しました。

 

 キリスト教信仰にとりまして、「罪の赦し」は中心的な教えです。

 イエスを神の子として受け入れ、その教えと共に、イエスが十字架にお架かりになることを通して、信じる者の罪が赦されるというのです。

 それは、神に対する拒絶という罪の負債を、イエスご自身の十字架の死を負債の代価とすることにより、信仰者は神のものとして買い戻されたのです。

 このことを「十字架による贖い」と申します。

 では、十字架に死に、復活なさったキリストを信じる者は、罪から解放され、罪の負債は帳消しにされたのか?

ということを、本日は考えています。

「帳消し」という言葉は、聖書では3回用いられています。

 

1つは、旧約聖書のネヘミヤ記にあります。

紀元前550年、滅ぼされた古代イスラエル王国を復興するために立てられたネヘミヤ監督が、神殿の城壁再建の折りに、労働者の公平のために「負債の帳消し」を行った記録です。

祖国復興のために身を裂いて働くネヘミヤの姿は印象深いものです。

 

 2つ目は、ルカ福音書7章42節で、

「二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」

という例え話で語られています。

 

3つ目は、本日のマタイによる福音書18章23節以下でイエスが語られた天の国の例え話です。

 この例え話は、1万タラントンを主君から借金している家来の話です。

仮に今の貨幣価値で言うならば6000万円というところです。

主君は返済不可能な家来を憐れに思い、借金を帳消しにしたのです。

ところが、この家来は自分に100万円ほど借金のある仲間に対し返済を迫り、返すまで牢に入れたのです。

他の仲間たちは事の次第に心を痛め、主君に報告しました。

そこで主君は家来を呼びつけ、帳消しを取り消し、借金を返すまで牢に入れたのです。

 この例えでは、帳消しにされたはずの借金が、再び請求されています。

帳消しとは言え、無かったことにはされていなかったことは衝撃的です。

 このことを心に留めつつ、本日の「帳消し」の例え話から聴いてまいりましょう。

 

 詩編51編にダビデの歌とされる言葉があります。

51:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。

 51:2 ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】

 51:3 神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。

 51:4 わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。

 51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。

 51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。

 51:7 わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。

 51:8 あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。

 51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。

 特に最後の9節の言葉に注目します。

51編9節

「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。」

とダビデは歌いました。

 

 この詩編にまつわる、一つのエピソードをご紹介します。

 当教会の中心的信徒であった石坂真砂さんについての話です。

 そもそも、現在の、この地での伝道は、1923年11月に購入された宣教師館に始まります。

 土地建物の購入に尽力されたのが、当教会の信徒であった井上三郎さんでした。

 1924年1月より、サロネン宣教師により池袋神学塾が開設されました。

 その後、神学塾は閉校となり、1907年より千駄ヶ谷、巣鴨を経て、1931年にフィンランド・ミッションの東京教会として再々スタートしたのが東京池袋教会でありました。

 そして、1941年12月から1945年9月までの太平洋戦争の間、日本に残留した宣教師たちは軽井沢や飯田に隔離されました。

 その戦争の間、池袋の宣教師館を守り抜いた方こそ、石坂真砂さんでした。

 真砂さんは折に触れて軽井沢にいた宣教師を訪ねたと伝え聞きます。

 軽井沢の宣教師たちを訪ねた人々の記録として軽井沢ゲストブックが遺されています。

 そのゲストブックを預かる牧師が石坂さんの書き残した言葉を教えてくださいました。

 それが、ダビデの歌とされる詩編51編9節の言葉であったのです。

「わたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。罪深い私をお赦しください。」

との言葉であるそうです。

 

 さて、本日の福音に戻ります。

 クリスチャンは、イエスが私たちの罪を負って十字架に架かり、復活によって十字架での死もろとも罪を滅ぼし、私たちの罪を拭ってくださったと理解します。

これは正しいことです。

 しかしながら、本日の例え話を聴きますと、人間の罪がなかったことにされたのかというと、そうではなさそうです。

罪を赦されるということは、罪を犯したことによるのですから、罪を犯さなかったこととは全く違います。

 罪を犯したにもかかわらず、以前にも増して、なお愛してくださるのです。

これが神の愛です。

 

 あるクリスチャンの方から、信用と信頼とは、どのように違うのですか?と訊かれました。

 信用は、信用に値する実績があり、確かなものに託すことであり、もしもの場合の補償を持つことと言えます。

信用を一度失ってしまうと、それを取り戻すことは社会では不可能のように思えます。

 これに対し、信頼という言葉は、信用に値する根拠になる事柄を求めていないように思います。

まだ何者か分からない者に対しても信頼すること、失敗を繰り返してもなお任せて期待すること、などの可能性を含んでいるように思います。

 例えるなら、神の愛は信用にあらず、信頼でありましょう。

 

 罪を無かったことにして愛してくださる神と、罪を犯した者を赦し、再び愛してくださる神とは、ふところの大きさが違います。

 私たちキリスト者は、この再び愛してくださる神と出会ったのです。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」