2026.10.11説教「礼服」

聖霊降臨後第20主日

「礼服」

 

マタイ22章15-22

◆「婚宴」のたとえ

 22:1 イエスは、また、たとえを用いて語られた。

 22:2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。

 22:3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。

 22:4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』

 22:5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、

 22:6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。

 22:7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。

 22:8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。

 22:9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』

 22:10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。

 22:11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。

 22:12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、

 22:13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』

 22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」


「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

 本日は、マタイによる福音書22章から、「天の国」すなわち「神の国」を身近な出来事にたとえて語られています。

 この話の聴衆たちは、祭司長たちやファリサイ派の人々、また民の長老たちであることが、直前の記事から分かります。

 22章2節を見ますと、

《天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。》

と始まります。

「天の国」、それは「神の国」のことであります。

 私たちが生かされている、この世界もまた、神の国であるということです。

 神の国についての、別の御言葉がありますので紹介しますと、ルカによる福音書17章20節、

《ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」》

とイエスは教えておられます。

 本日のマタイ22章では、神の国が王宮での婚宴に例えられており、この御言葉から「神の招待」について聴いてまいります。

 このマタイ22章1節から14節までの例えでは、物騒な話が含まれますが、だからこそ、たとえ話ということでありましょう。

 しかしながら、イエスを十字架に架けた出来事は、たとえではなく、指導者たちの自己保身であり、それに扇動された民衆心理であり、人間のなせる業であったことは事実でありました。

また、かつての預言者たちも、洗礼者ヨハネも、人間の剣に倒されて来たのでした。

 

 さて、たとえ話では、王が王子の婚宴のために人々を招待しています。

 家来たちを送り、客を呼びに行かせたが、来ようとしなかった。

別の家来を送っても、人々は無視し、家来への乱暴に及びました。

 王は怒り、軍隊を送って、その人々の町を焼き払った、とあります。

8節を見ますと、

《そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。》

との、王の言葉があります。

彼らが「ふさわしくなかった」のであるならば、「ふさわしい」とは、どういうことでしょうか。

王の招きに直ちに応えることが、ふさわしいのでしょうか。

そこで、王は、家来たちに町の通りに出て、見かけた者を招待するようにと命じます。

 家来たちは命じられた通りに誰でも集めて来たので、婚宴の席は客でいっぱいになったとあります。

 こうして、たとえ話はクライマックスを迎えます。

11節、

《王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。》

とあります。

 この「くだり」は、たとえ話でありますが、イエスから聴衆へ、すなわち祭司長やファリサイ派の人々、長老たちへのメッセージとされています。

 

「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」

 

 旧約聖書を見ますと、晴れ着にまつわるエピソードが幾つか記されています。

 創世記41章14節には、ヤコブの子ヨセフがエジプトのファラオに招かれた場面があります。

《そこで、ファラオはヨセフを呼びにやった。ヨセフは直ちに牢屋から連れ出され、散髪をし、着物を着替えてから、ファラオの前に出た。》

とあります。

 また、創世記45章18節では、ヤコブの子ヨセフが家族をエジプトの王宮へ招く様子です。

《父上と家族をここへ連れて来なさい。わたしは、エジプトの国の最良のものを与えよう。あなたたちはこの国の最上の産物を食べるがよい。』家財道具などには未練を残さないように。エジプトの国中で最良のものが、あなたたちのものになるのだから。』」イスラエルの息子たちはそのとおりにした。ヨセフは、ファラオの命令に従って、彼らに馬車を与え、また道中の食糧を与えた。ヨセフは更に、全員にそれぞれ晴れ着を与えたが、特にベニヤミンには銀三百枚と晴れ着五枚を与えた。》

とあります。

「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」とは、招かれる客に礼服での参列を要求するものではなく、招待と共に参列するための礼服までも用意されているということなのです。

 

それゆえ、イザヤ書61章3節と10節では、主がお与えになる麗しい衣が例えられ挙げられています。

《シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。

主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる。》

神は、神の国に、多くの人々を招待されます。

神による招待と共に、招かれた者のために礼服が用意されています。

このことを、伝道者パウロは「キリストを着る」と表現しています。

ガラテヤの信徒への手紙3章26節です。

《あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。》

 

「キリストを着る」とは、どうすることでありましょうか。

 

 パウロは、Ⅰコリント書11章1節で、次のように勧めています。

《わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。》

 また、パウロは、コロサイ書3章10節、12節で、

《造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。》

と勧めています。

 キリストの御言葉、キリストの愛に倣って、聖霊の実(みのり)の数々を、あるいは、いずれかの一つでも身にまといなさいとの勧めです。

 たとえ、自分自身は乏しくとも、私たちにはキリストの御言葉があるということに、希望と勇気を見出してまいりましょう。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」