2026.10.25説教「愛されなさい」

宗教改革主日

「愛されなさい」

 

マタイ22章34-46

 22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。

 22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。

 22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

 22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

 22:38 これが最も重要な第一の掟である。

 22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

 22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 22:41 ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。

 22:42 「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、

 22:43 イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。

 22:44 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』

 22:45 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」

 22:46 これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。


「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

 1517年10月31日、ドイツでマルチン・ルターの発言により宗教改革運動は始まりました。

この運動は、次第にヨーロッパ中に広がり、やがて世界的な歴史として刻まれました。

 私たちが集う、このルーテル教会は、まさにこの運動から生まれた教会(プロテスタント教会)であり、509年目の記念礼拝を迎えました。

 2017年11月には、世界的に見ない出来事として、カトリック教会とルーテル教会の共同記念が、長崎の浦上天主堂で行われました。

 イエスの十字架上での死、そしてキリスト(救い主)の復活の証言により始まったキリスト教。

その大きな流れを追ってみますと、西暦1000年頃、キリスト教会は東西に分裂、東が正教会、西はローマ・カトリック教会となりました。

その500年後、カトリック教会から離れ、ルーテル教会としての流れが始まりました。

 このように、キリスト教2000年の歴史は、分裂の歴史であったと言えるでしょう。

しかしながら、西暦2000年を前後してキリスト教一致運動が盛んになりました。

そのような流れの中で、宗教改革500年に当たり、カトリック教会とルーテル教会による共同礼拝が行われたのです。

この祭典は、両教会の代表者だけが集まるという象徴的な会ではなく、両教会の国内聖職者を挙げての会であったことは、世界的にも画期的なものとなりました。

 2000年にわたって分裂してきた教会ですから、これから2000年かけて一致させて行くほどの覚悟が必要でありましょう。

また、人の考えが教会を分裂させたのですから、人の手によって一致させることができますし、分裂させてきた歴史を負う者としてキリスト者には教会を一致させて行く責任があります。

 

 1517年、宗教改革運動により生まれたプロテスタント教会ですが、しばらくは新教の構築に奔走することになります。

他方、カトリック教会は世界への宣教師派遣を活発化させています。

イエズス会創始者の一人であるフランシスコ・ザビエルは、1545年にインドでのキリスト教推進、1549年には日本で初めてキリスト教布教を果たしています。

プロテスタント教会として初来日したのは1859年、アメリカ聖公会の宣教師でありました。

 

さて、本日の御言葉はマタイによる福音書22章34節以下から、聖書が伝えるところの律法、すなわち最も重要な神との約束は何かという問答が語られています。

イエスとの問答の相手は「律法の専門家」となっていますが、それ以上の素性は明記されてはいません。

34節に、ユダヤ教のファリサイ派とサドカイ派というグループ名が挙げられていますが、律法の専門家である学者の所属はわかりません。

ユダヤ教における圧倒的多数派はサドカイ派でありました。

彼らは現世における見える罪の償いに重きを置き、犠牲の捧げ物を奉納することにより罪の赦しを与えられていました。

来世における見えない復活信仰には興味を示してはいません。

他方、ファリサイ派は復活信仰に重きを置き、それに与るために律法で定めるところの数ある約束と制約を遵守し、罪を犯さないことを通して罪の償いを回避する少数派のグループでした。

「ファリサイ」とは「選ばれた者」を意味する言葉で、彼ら自身が好んで使っており、権威主義で傲慢な印象がある人々ですが、復活信仰の継承者であるという意味では、キリスト教はファリサイ派の流れであるということになります。

36節の「どの掟が最も重要でしょうか」という問いに対して、イエスは二つのことを答えられました。

37節、

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」

誠心誠意尽くすことでありましょうけれども、心と精神と思いということが分けられていることは、見えない事柄に対する深い考察があるからです。

例えば、自分の考え、自分の感情、神から与えられた使命という側面から分けられるように。

いずれにしても、他者との関係における内なる愛を取り上げておられます。

次に38節、

「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」

こちらは他者との関係での外なる愛に注目されています。

これらは、紀元前1500年頃のモーセの時代から言い伝えられてきた約束事でありました。

ここまで読んできて、「見えるもの」と「見えないもの」が対峙していることが気になります。

ユダヤ教サドカイ派は、見える罪を自覚し、見える犠牲の奉納を通して、見える罪の赦しに与りました。

ファリサイ派は、罪を見えなくすることにより、見えない復活信仰を確信しました。

また、重要な律法はどれかという選別では、「神を愛する」という見えない愛と、「隣人を愛する」という見える愛を示されました。

 

では、信仰の「見えるところ」と「見えないところ」とはどうなのかについて、パウロの考えを見るとⅡコリント5章7節には、

「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」とあります。

さらに、

ローマ3章28節では、

「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」

とさえ言っています。

その根拠として、

ローマ9章30節以下で、

「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです」

と述べています。

 

 このパウロの主張に対抗するかのような言葉が、新約聖書にはあります。

ヤコブの手紙2章18節で、ヤコブという信仰者によって述べられています。

「しかし、『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」

と。

これらは人間の側からの熱意によって見た信仰観でもあり、人のいるところ、人間の歴史においては、信仰の一致、教会の一致はまだまだ「遠い夜明け」である思いがします。

 

そこで、本日の御言葉に立ち返って読み直します。

37節の「神を愛しなさい」と、38節の「隣人を愛しなさい」との言葉は、どちらも「神の愛」のみを指し示す「アガベー」というギリシャ語が使われています。

「アガペー」という言葉は、人間の行為には用いられません。

人には人の「エロース」という愛の行為を表す言葉があります。

これは「好き」程度の言葉です。

どういうことかと申しますと、イエスが私たちに「アガペー」を求められる時、それは「あなたを通して神が働かれる」ということを教えておられます。

「愛しなさい」を直訳すると、「あなたは神が欲しておられることを果たさなければならない」ということになります。

あるいは、「神が欲することを、あなたを通して果たされる」と言ってもいいでしょう。

 

そこで、アガペーに基づく「愛しなさい」との言葉を聴き直しますと、「愛されなさい」という福音が聴こえてきます。

アガペーが人間を貫いて神を愛せしめる(愛さずにはおれない者とされる)ことは、人間が神を愛するより早く神に愛されているということです。

また、「隣人を愛しなさい」とは、「隣人と共に神に愛されなさい」と等しいことでありましょう。

人間が歴史の上での分裂を乗り越え、一致を果たすべき道は、人間同士が愛し愛されることにあらず、共に神に愛される道以外にはないであろう。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます」