2026.11.01説教「またね」
全聖徒の日・召天者記念
「またね」
マタイ5章1-12
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
私たちが愛し、尊び、大切な存在であった方々の召天を偲び、今年も召天者記念礼拝に、ようこそお越しくださいました。
このようにして毎年お会いできますことも、なお生かされている者としての喜びでございます。
今年も召天者を尊び、記念してまいりましょう。
イエス・キリストの言葉に、次のような言葉があります。これはマタイ福音書11章の言葉です。
《あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。》
なぜ、この御言葉を読んだのかと言いますと、私たちは今日、何をしに集まったのかということを確かめたかったからです。
死者たちは神の元へ行ったのだろうか。
先立ったことを悲しんではいないだろうか。
安息を得ているのだろうか。
死後の世界はあるのだろうか。
私が死んだら、どうなるのだろうか。
などと思いめぐらすこともあるかも知れません。
では、キリストは何と仰っているのでしょうか。
キリストは、死の向こうについて、次のように仰います。
これはヨハネ福音書14章にある言葉です。
《「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。》
と、死後の世界について教えておられます。
続けて、次のようにも仰います。
《「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。》
ここに、キリストによって神が示され、このキリストの言葉を信じることが、神のもとへの道であると教えておられます。
また、キリストの復活を通して、死は、この世である此岸(しがん)と、「神のもと」と例えられる彼岸との門に過ぎず、通過点とされました。
キリストは、死というものに、人の希望を中断し、悲しみに閉じ込め、絶望させることなど許してはおられません。
むしろ、死のそのような暴挙に憤りを見せておられる場面もあります。
私たちの多くは、特にキリストの言葉を信じる者にとっては、この約束に励まされて生かされ、死で終わりではない安息という希望が示されています。
わがルーテル教会の源流であるドイツの修道士であったマルチン・ルターは、死の恐れと対峙・対決した人でありました。
ルターによる1517年の宗教改革の発端となった書物に、「95箇条の提題」というカトリック教会当局への質問状があります。
これは、免罪符というお札によって、現世の罪をはじめ、死後にまで負わされている罪が赦されるのかどうか、公に議論しようではないかというものでした。
これによりルターは破門され、新しい教会を生み出すこととなった509回目の記念日が、先週の日曜日でありました。
この著作の中で、ルターはわずかに死後の世界について論じています。
その第13条よると、「死に臨む人たちは、死によってすべてを支払うのであり、教会法規に対してはすでに死んだ者であり、それらの法からは当然解放されている」としています。
また、15条では、「死の恐れとおののきは、それだけでも充分に死の罰をなしている」とし、さらに17条に至っては、「死の向こうにある魂にとって、おののきが減ぜられるに応じて愛が増し加えられるのは、必然のように思われる」としています。
ルターが「死」について語るのは大胆な口上ではありますが、死と人の罪と神の赦しを売り物としていた時代に対して、命を賭して訴える故の言葉であったと受け取れます。
さて、今年の召天者記念のために与えられました聖書の言葉は、マタイ福音書5章です。
これは、山の上の説教・山上の説教としてよく知られる御言葉です。
5章12節の言葉が印象的です。
《喜びなさい。大いに喜びなさい。》
これは、人の死を神に帰ることとして、大いに喜びなさいと言っているわけではありません。
むしろ、伝道者パウロが言うように、生きるにしても、たとえ死んだとしても、私たちにとっての喜びとは何であるかを問う言葉でありましょう。
自分の人生や生い立ちを振り返るとき、子どもの頃は無邪気に喜べたものだなと思いますし、そうであったならば幸いです。
戦争という国際社会の事情や、家庭の事情、個人的に負うところの物事によって、素直に喜ぶことが許されなかった方もおられることでしょう。
だからこそ、「大いに喜びなさい」というキリストの言葉に打たれ、憧れ、印象深く心に留まるのかも知れません。
私たちはそれぞれの人生での成長を振り返る時、「私の喜び」というものが、次第に人と共に喜ぶこと、人の喜びを自分の喜びとできるようになるというように変化をしてまいります。
さらに御言葉は、生きるにしても、たとえ死んだとしても、「喜びなさい。大いに喜びなさい」と呼びかけているのです。
神を喜ぶこと、神に喜ばれることにおいては、生きるにしても、死に臨んでも、神に在って違いはないのだと知らされます。
この御言葉は、いったい何を喜べと言うのでしょうか。
3節に注目しますと、
《心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。》
と書かれています。
これはマタイ福音書によるキリストの言葉ですが、ルカ福音書では「貧しい人々は」と語りかけており、この御言葉が、単に「心の貧しさ」という精神的なことを教えているのではないことがわかります。
ルカの言うように、生活が貧しいことも深刻な問題ですが、それ以上に、心の貧しさはさらに深刻な事態のように思われます。
マタイの言う「心」とは、「神からの霊」という意味であり、「命の息吹」を指す言葉が、ここでは「心」と訳されています。
原典のギリシャ語では「聖霊」という言葉が使われています。
「命の息吹」に乏しく、「神からの霊」に貧しい人々は幸いである、というのです。
なぜならば、天の国すなわち神は、命の息吹に満ち満ちておられる方であるから、神の霊に乏しい人々には命の息吹が吹き込まれ、満ち溢れるようにされるから幸いなのであると言うのです。
天の国とは、そのような人たちのものであり、そのようなところであると受け止めるべき御言葉です。
最後に、4節を見てみますと、
《悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。》
とあります。
素直に聴きますならば、慰めがある、慰めが用意されているということに安堵致します。
幸いであるというものです。
悲しむ人々には慰めがある、これは先立つ者にも見送る者にも等しく、胸に沁みる御言葉であり、信仰によって希望となる言葉です。
また、別れの悲しみを癒すのは「感謝」ということであると思います。
共に生きたことへの感謝、出会えたことへの感謝が、別れの悲しみを共に生きた喜びへと変える力を持っていると、希望を持っています。
きょう、私たちが過ごしている記念のひとときは、共に生きたことへの感謝であります。
記念とは、感謝です。
そして、これこそキリスト教信仰の核心でありましょう。
聖書では、最も大きな悲しみは、神に忘れられることであるとされています。
それゆえに、神はあなたを忘れない!とはっきりと宣言なさるのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます」
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