「私たちの教会の名前」-池袋教会『会報』より

「私たちの教会の名前」(2019年9月15日)

 私たちの日本福音ルーテル東京池袋教会は宣教が開始されてから今年で112年になります。「112年」、節目というわけではありませんが今年の7月14日の礼拝を「宣教112年記念礼拝」とし、その中で私たちの教会の宣教が開始された頃のこと、特にフィンランドから来られた宣教師の働きを覚えました。
 私がこれまでに牧師として奉仕させていただきました教会で、その在任中に宣教50周年を、また別の教会では在任中に宣教80周年を迎えるという経験をしました。その経験の中で感じたことなのですが、宣教開始から50年という教会では宣教が開始された時のことを直接知る信徒の方々がおられました。開拓当時のさまざまな話をその頃のことを知る方々から直接聞くことができたのです。宣教開始から80年の教会では宣教が開始された頃のことを直接知っておられる方はほとんどおられませんでした。けれども宣教が開始された頃に中心になって奉仕された先生や信徒の方々、既に召された開拓当時におられた方々のことをよく知っている信徒の方々がおられました。ですからその方々を通して宣教が開始された頃の話を聞くことができました。
 112年前に宣教が開始された私たちの教会ではその当時のことを実際に知っているという方がおられないのは当然ですが、その頃におられた方々を直接知っているという方もあまりおられません。しかし、その頃のことが『私の日記 1903~1945 シグリ・シーリ・ウーシタロ』という冊子に記されています。私たちの教会の開拓に尽力された最初の婦人宣教師であるウーシタロ先生の日記です。1997年に牛丸省吾郎先生とヒルダ先生によって池袋教会に関係のある部分を翻訳され冊子にまとめられたものです。日記にはウーシタロ先生が1907年7月中頃に下諏訪から東京に来て、千駄ヶ谷(現在の住所では渋谷区代々木)の借家で宣教が始められたこと、翌年3月に3人の洗礼式が行われたことなどが記されています。短い文章で、かなりの日付が飛んだりもしているのですが、日記ですからその当時の思いを垣間見ることもできます。その日記には「千駄ヶ谷教会」という名称が出てきます。正式名称かは分かりませんが、私たちの教会の最初の名称は「千駄ヶ谷教会」のようです。1912年10月には千駄ヶ谷の別の借家に引っ越しをしています。引っ越した先は「大きな家」とありますので宣教の進展を感じさせます。そこでも「千駄ヶ谷教会」として伝道をしたのでしょう。その後、千駄ヶ谷教会は巣鴨に引っ越すことになります。井上三郎兄の『福音ルーテル教会史 フィンランド・ミッション日本伝道の歩み』によれば、その引っ越しは1916年のことで、「西巣鴨福音ルーテル教会と呼ぶことになった」とあります。その少し後に同じ巣鴨の中でまた引っ越しをしています。『福音ルーテル教会史』によればその引越しの理由は家主から立ち退きを要求されたからです。千駄ヶ谷で2か所と巣鴨で2か所という最初の24年間の教会の歩みには、早くから「自分たちの会堂を」という教会員の祈りがあったようです。借家で引っ越しを繰り返す状況の中では当然のことのように思われます。ウーシタロ先生の日記には、そのために献金があったこと、バザーが行われ、その収益が会堂積立献金として献げられたことなどが記されています。そして「1931年6月21日、東京福音ルーテル教会献堂式、20年間も会員一同で祈り、献げ、積み立てたもので池袋の敷地内に会堂を建てることができた」とあります。
 私たちの教会の名称はその頃までに「千駄ヶ谷教会」、「西巣鴨福音ルーテル教会」、「東京福音ルーテル教会」と変遷していることになります。その「東京福音ルーテル教会」の名称から今も「東京池袋教会」と「東京」が残されていると聞いています。巣鴨から池袋の地に移り、自分たちの会堂が献堂されることになった時には、当然新しい教会の名称について話し合われたことでしょう。「池袋福音ルーテル教会」という名称も候補になったかもしれません。その経緯についてはもはや知ることはできませんが、「東京福音ルーテル教会」は千駄ヶ谷と巣鴨での歩みを、それぞれの時代に教会員となった方々を包括する名前として名付けられたのではないかと思いました。それはまた東京という広い地域で宣教をしていくという当時の教会に連なる方々の思いを表しているようにも思います。今でも首都圏の広い地域から私たちの教会に来られる方々がおられます。そんなことを考えながらこの地で宣教をするという思いを新たにさせられました。時代を超えた私たちの兄弟姉妹の祈りと思いを引き継いでいきたいと思っています。