「お先にどうぞ」-池袋教会『会報』より
「お先にどうぞ」(2019年12月8日)
「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10章31節) 福音書には、後の者と先の者が逆転するというイエス様の言葉が記されています。だれが先を行く者で、だれが後を行く者でしょうか。この言葉を聞くときに私たちは自分をどちらに考えるでしょうか。後になるか、先になるかは二者を比較する中で考えることですから、自分をだれと比べるかで、自分は先にも後にもなるということを思います。
2000年前にイエス様から直接この言葉を聞いた弟子たちと今の私たちを比べるなら、後から来て先になる者は私たちということになるでしょう。しかし今の私たちで、例えば教会の中で考えるなら、教会生活の長さによって後になったり、先になったりするとも言えます。また、これから教会に招かれる人のことを考えるなら、今教会にいる私たちは先にいる者ということになるのではないでしょうか。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」、この言葉を聞く者は、同時に「あなたはだれと自分を比べますか」という問いをも与えられているように思います。
この先の者が後になり、後の者が先になるという「逆転」は、イエス様の教えの中に流れているひとつの考え方であるように思います。マタイの福音書20章1~16節に記される「ぶどう園で働く人々のたとえ」で、雇われた人々に賃金を払うときになってぶどう園の主人は監督に「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言っています。夜明けと9時、12時と3時、そして5時に雇われた人々は、5時に雇われた者から順番に賃金を受け取ることになったのです。それだけではありません。渡される賃金は皆同じように1デナリオンです。働いた時間に関係なく、1時間でも、3時間でも、6時間でも一日中働いた者でも1デナリオンを受け取ったというたとえです。これは神の国のたとえです。このたとえに倣って実際の職場で労働時間に関係なく同じ賃金が支払われるとしたら、働く者は意欲をなくしてしまうことでしょう。しかし神の前には、だれもが同じように1デナリオンを受け取るというのです。
この世の中は、決して平等ではありません。労働時間に関係なく同じ賃金が支払われるという会社はないとしても、まただれもが自分の労働に見合った賃金を受け取っているというわけでもありません。世の中、得をしている人もいれば損をしている人もいます。人生の終わりに損得、幸不幸のすべての帳尻が合うということでもありません。見方によっては、神からの恵みについてもそのように言えるかもしれません。神の恵みは「あなたもこれだけ」「あなたもこれだけ」というようにとだれもが同じものを同じように受け取っているわけではないからです。私たちは時間や健康、日ごとの糧を神からの恵みとして受け取っていますが、人それぞれ、受け取っているものに違いがあるということを感じているのではないでしょうか。ただ「神の愛」はだれに対しても同じように与えられています。神の愛は物差しで測ったように、例えば一つのリンゴを10人いれば10等分して、20人いれば20等分して配られるというようなものではありません。その人をただ一人のかけがえのない人として、神は受け入れ、愛してくださるのです。
ぶどう園の主人は、1日中働いた不平を言う者に言いました。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」(マタイ20章13~14節) 神の国の出来事としてこの言葉を受けとめるとき、私たちは大きな平安に包まれるのではないでしょうか。なぜなら私たちは、主人に招かれてぶどう園に行ったらもうぶどうの収穫は終わっていて賃金を渡されるところだったということを思うからです。それでも私たちは主人から1デナリオンをいただきました。私たちだれもが、神の前には最後に来た者だということを思います。何の働きがないにも関わらず神の愛を受け取っているからです。
そしてだからこそ、平等とは言えないこの世にあって私たちは先を目指すのではなく、後の者になることを喜ぶように主は願っておられると思うのです。イエス様は「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(マルコ9.35)と言われました。これは今、後になり仕えるならば、後で先にしてもらえるということではありません。後になること、仕えることが、そのままで神の前に尊いと教えられているのです。なかなかそのようにできない私たちでもありますが、それでも神の愛を既に知っている者として、後になることを喜べる者になりたいと思うのです。