「悲しみの中の希望」-11月1日説教
マタイによる福音書5章1~12節
生と死の「死」という出来事は、私たちにとりまして二つの側面を持っているように思います。私自身の死と私以外の人の死、私にとって大切な人の死という二つです。私の死と大切な人の死では同じ死という出来事であっても、ずいぶん違うものであるように思うのです。私自身の死は、ここにいる私たちはだれも経験していません。私たちにこれから起こる出来事です。まだ経験していない死という出来事を、自分の出来事として内側から想像することが、私自身の死と向かい合うことだと思います。一方、自分にとって大切な人の死は、多くの人が既に経験しています。けれどもその死は「私の死」ではありませんから、そのとき死という出来事を外側から見つめることになります。また死という出来事は、地上での別れの時と言えます。別れの時ですから、大切な人の死を経験する時には大きな悲しみがあります。自分の死という出来事も別れの時であることに変わりはありません。死を迎えた後のことを私たちは詳しく知りませんから、はっきりとは分かりませんがヨハネの黙示録(21.4)には、天の国、神の国が完成する時について「もはや悲しみも嘆きも労苦もない」とも記されています。召されたときには、地上で感じるような悲しみはないのかもしれません。今日は全聖徒の日です。召された方々を記念する時です。私たち自身の死というよりも、大切な人の死を見つめる時です。そして召された方のことを思い起こしながら、地上の歩みを続ける私たちが感じる悲しみに、慰めと希望が与えられる時です。イエス様が与えくださる慰めに、そして希望に心を向けたいと思います。
聖書は、イエス様の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」という言葉が記されている箇所です。幸いだと言われるさまざま人々がいます。どうして「心の貧しい人々」が幸いなのだろう、「悲しむ人々」が幸いなのだろうと感じるのではないでしょうか。後に出てくる「柔和な人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」について、イエス様が幸いだと言われるのは理解できると思います。けれどもその正反対とも言える心の貧しい人々も、幸いだと言われるのです。心の貧しい人々とは、自分の心を低くしている人、謙虚な人、へりくだった人のことだと説明されることもあります。しかしそのように理解するためには、かなりの飛躍が必要だと言えます。この「心」は、霊とも訳される言葉で、息、息吹、霊魂、という意味もあります。神の霊、聖霊に呼応する私たちの心のことだと考えてもいいと思います。イエス様はそのような心が貧しい人々のことを言われたと考えていいでしょう。ただ、そのことに気づいているということが大切だと思います。自分の心が貧しいことに気づいて、そのことに失望している人、自分の罪を痛感している人のことです。そのような人々は幸せだとイエス様は言われたのです。その次は悲しむ人々です。「柔和な人々」「憐れみ深い人々」の反対というわけではありませんが、幸いとは程遠いと思える人です。この悲しみは、人の死を悼むという悲しみです。他のさまざまな悲しみを考えることもできる言葉ですが、言葉の本来の意味は死を悼むということのようです。私たちが生きていく中で経験するいちばん大きな悲しみだと言ってよいかもしれません。そのような悲しみにある人々は幸せだと、イエス様は言われたのです。
「柔和な人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」と聞いて、私たちは、イエス様は私のことを言われているとは思わないのではないでしょうか。この箇所に登場するイエス様が幸いだと言われた人々が、柔和だったり、憐れみ深かかったり、そのような人々ばかりだとしたら、この箇所は、私についての言葉でなく、私たちが見倣うべき信仰者についての言葉だと考えるかもしれません。幸いである人々の最後は「義のために迫害される人々」ですから、迫害によって殉教した信仰者たちをその人々に加えることもできるでしょう。イエス様が幸いと言われたのは、命をかけて、人生をかけて神のために働いた信仰者たちのことだと考えるのではないかと思うのです。全聖徒の日は、すべての召された聖徒を、イエス様の十字架によって清い者、聖とされた信仰者を覚える日です。けれども、もともとは聖パウロとか聖ペトロ、聖フランシスコという呼び方で表す「聖人」を記念する日でした。今日でもカトリック教会では、この日を「諸聖人の日」、聖人を記念する日としています。そして、この日にマタイ5章の今日の日課が読まれるのも古くからの教会の伝統のようです。つまりこの日課に登場する「柔和な人々」「憐れみ深い人々」「義のために迫害される人々」と聖人を重ねて、そのような聖人の信仰を覚えたからです。私たちにとりましても、そのような信仰者たちのことを覚えることを、その歩みに倣う者とされることを願うことは大切なことだと思います。けれどもそれだけではありません。イエス様はそのような信仰者とは正反対と言える「心の貧しい人々」は幸いだと言われたのです。「柔和な人々」「憐れみ深い人々」と同じように幸いだというのです。そして、そのことを覚えることが何よりも大切なことであると思います。
何故でしょうか。何故イエス様は「心の貧しい人々は幸い」だと言われたのでしょうか。聞いていた人々は驚いたに違いありません。後から出てくる「柔和な人々は、幸いである」「憐れみ深い人々は、幸いである」という言葉を聞いて、本当に「心の貧しい人々」と言われたかと、聞き間違えたのではないかと思った人もいたかもしれません。確かに「心の貧しい人々は幸いである」というのは、どうしてだろうと思います。しかしイエス様のご生涯は、柔和さ、憐れみ深さ、清い心とは正反対と言える心の貧しい人々を招き、赦すためのご生涯であったことを私たちは知っているのではないでしょうか。そのためのご生涯、そのための十字架でした。イエス様は「心の貧しい人々は幸いである」と言って自分の心の貧しさに失望している人々を招かれました。イエス様からこの「幸いである」という言葉を聞くということが大切なのです。イエス様は「天の国はその人たちのものである」と言われます。私たちは罪の中にいて、自ら神に向かおう、神を捜そうとする心を持っていないわけですが、そのような心の貧しい私たちをイエス様が招いてくださったので、私たちは幸いへと天の国へと至ることができるということです。天の国とは、死んだと後に行く場所というだけでなく、神が私の神としておられる国ということです。神が共にいてくださるのです。けれども、もし天の国にいるのが、神と私だけだとしたらどうでしょうか。悲しみも嘆きも労苦もないのだとしても、神と永遠に共にいてくださるという喜びがあるとしても、それでも心配と感じることがあるのではないでしょうか。「私の大切なあの人はどこにいるのだろう」、「親しかったあの人はどうしたのだろう」、そんなことを思うのではないでしょうか。
イエス様は言われました。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」と。イエス様は、大切な人の死を悼んでいる、その深い悲しみに慰めが与えられると約束をしてくださっています。地上での別れによる悲しみに慰めが与えられるとのは、その人との再会を約束してくださっているということではないでしょうか。イエス様の十字架は、私たちの貧しい心を赦すための十字架であり、同時に、私たちに新しい命を与えるための十字架です。イエス様にある新しい命を与え、再会の希望を与えるための十字架であるということを思うのです。イエス様は悲しむ人々は慰められると言われました。それは慰められる日が来るというイエス様の約束です。けれども慰められるから、やがて幸いになると言われたわけではありません。イエス様の言葉を聞いている今既に幸いであると言われたのです。それはイエス様の約束を信じて、希望をもって生きるところに幸いがあるということです。希望があるところに既に幸いがあるのです。希望のうちにイエス様の幸いを生きる者に、幸いを伝える者にされたいと思います。(2020年11月1日)