2024.10.6説教「パートナー」

聖霊降臨後第20主日

「パートナー」

 

マルコ10章2-16

◆離縁について教える

 10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。

 10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。

 10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。

 10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。

 10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。

 10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、

 10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。

 10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

 10:10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。

 10:11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。

 10:12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」


「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

本日のマルコによる福音書10章2節以下のテーマは「離縁」でありますが、そこで「離縁」の問題の前提となる「結婚」について、聖書が掲げる結婚観と、現代社会における新しい結婚観への取り組みを通して、パートナーについて考えてまいります。

 

当然のことながら、日本のみならず、それぞれの国において個別の「婚姻制度」が設けられておりますし、一つの国家の中でも民族ごとに固有の「結婚観」が受け継がれています。

結婚の形は一つではない、のです。

そう思い知らされる幾つかの体験を紹介させていただきつつ、聖書に見る結婚観、現代社会が向き合う結婚観を見てまいります。

 

1980年、当時、私は神学生でありました。

「アジア研修セミナー」というプログラムが企画され、香港の神学校で2週間、東南アジア諸国の神学生たちに交じって講義を受け、交流をし、現地の伝道を視察する機会を与えられました。

私自身にとって初めての海外渡航でありました。

香港の神学校での講義ですから、言語は英語なのです。

半分も聴き取れない状況の中で、一人のイギリス人教授による「香港伝道の歴史」についての講義でのこと、教授は私を指して「あなたは『一夫一婦制』を信じますか!」と問われたのです。

「ノー」とは言えない勢いもありましたが、とっさに私は「もちろん!」と答えましたが、その時点ではイギリス人教授の質問の意図は分かりませんでした。

講義を聴くうちに、香港には一夫多妻の結婚の慣習があり、香港でのキリスト教伝道は一夫一婦制の教えと導入から始まったということを知りました。

香港での一夫一婦制の導入は1971年であり、それ以前の重婚(一夫多妻)の事実は、その後も有効とされたそうです。

開拓伝道国にとっては異文化であるキリスト教の結婚観や価値観の導入という伝道の仕方について考えさせられました。

そういう日本でも、民法における重婚禁止、いわゆる一夫一婦制の導入は1898年(明治31年)のことであったと言いますから、ここにも多分にキリスト教の影響があったのか?との視点が与えられます。

 

1990年、神学校のチャプレン時代、神学生の海外研修の一環で、韓国、シンガポール、タイへの引率をしていました。

タイでの研修のこと、神学校のタイ人英語教師との会話で、彼は私に「妻は何人いる?」と聞いて来たのです。

またしても質問の意図が読み取れないままに、「もちろん一人だけど」と答えたのですが、彼の質問の意図は、その次の言葉にありました。

彼は「日本でも家があって車を持ってると結婚できるのか?」と聞き、タイではそうだと。

続けて、「妻が三人いたけど、持ち家も車もないから、みんな出て行ってしまった」という嘆きでした。

 

これら二つの体験を通して、一夫一婦制について「もちろん!」と答えて来た自分の結婚観というものの背景は何であるのかを考えさせられました。

また、何を根拠に一夫一婦制が当たり前であると思って来たのかを問われます。

 

タイでは1935年に一夫多妻制は廃止され、書面上の重婚は法律で禁止されましたが、その後、重婚の風習の影は消えたのでしょうか。

そのような流れの中、世界的に同性婚についての議論が起こり、2024年9月24日、タイでは同性婚を認める「結婚平等法案」に国王が署名し、来年1月22日より施行されるといいます。

アジアで同性婚を認める国は、台湾、ネパールについで、タイは3番目となり、世界では39番目となります。

 

日本でも、LGBTQコミュニティーの人々が結婚の平等のために声を上げています。

今年3月には札幌高等裁判所が、同性婚を認めない民法などの規定は「法の下の平等」を保障した憲法14条や、婚姻について定めた24条に違反しているとの判決を出しました。

現在、日本では、各自治体ごとの判断により、全国で459の自治体で「パートナーシップ法」が制定されています。

このことの意義は、日本の婚姻制度では認められていない「伴侶」でも、パートナーシップ法で認められた者は家族と同等の権利を有するとの判断から、家族だけの看取りが求められる場合でも、それが可能であるということです。

 

聖書では「結婚」について、どう教えているでしょうか。

結婚の起源としては、創世記の記述が挙げられます。

127神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

218主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

221主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。

222そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。

224こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

 ここに、聖書の言うところの結婚の原型があると言えます。

しかしながら、モーセの前の時代はもちろんのこと、モーセの後の時代であっても、権力者などによる子孫を残すための重婚の例が聖書には記録されています。

 

本日のマルコ福音書の箇所では、モーセ(およそ3500年前の人物)が離縁を許したケースが取り上げられつつも、9節でイエス様は「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と教えられています。

 教会で行う結婚式の式文でも、今紹介した御言葉によって、結婚の宣言と祝福が告げられています。

 

 1995年頃のこと、結婚式の相談に訪れた男女の若者がおりました。聞くと、カトリック教会で断られ、聖公会で断られ、こうしてルーテル教会を訪れたときには、「私たちには結婚式を挙げる資格はないのでしょうか?」という相談内容となっていました。と言いますのは、彼らが結婚しようという時に、どちらかの家族に不幸があり、式を延期して入籍だけ済ませたそうです。その後、子が与えられ、教会を訪れた時には赤ちゃんを抱いておられました。

 喪が明け、一年も過ぎたので、ようやく自分たちの結婚式の準備を始めたところ、本物の教会では結婚式を挙げる願いが受け入れられなかった、ということなのです。

 他教派が断った理由を想像するに、カトリック教会や聖公会という教派神学における「結婚に至る順番が違う」ということではないでしょうか。商業的結婚式を行わない教会も多々あります。もちろん、ルーテル教会はというよりも私は引き受けました。彼らの、死を経験した親族への思いやりと、彼ら自身の結婚を大切に思う気持ちと将来への希望が祝福されるためです。

 最後に、離縁についても考えてまいりましょう。

 本日の10章9節でイエス様は離婚を認めておられません。

また11節の再婚については「姦淫」とさえ言っておられます。

にもかかわらず、現代の日本福音ルーテル教会は離婚を受け入れておりますし、再婚も認めています。なぜでしょうか?

 これは、キリストが旧約を新約に更新されたように、キリストの愛と赦しの現代的解釈として受け止められているからです。

 イエス様は昔からの言い伝えを再現されるばかりではなく、必要に応じて更新し、イエス様の当時的解釈で愛と赦しを実践しておられる場面があります、

ヨハネ福音書8章3節以下、

《そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」》

かつて神学校の石居正巳教授は、教会が結婚式を引き受けているからには、離婚せざるを得ない場合には、特に教会内においては離婚を公に報告する機会も引き受ける必要がある、とおっしゃっていました。

これからの人生にも祝福を祈るべきであるということです。

 

 カトリック教会では離婚は肯定されません。

実際の問題には、結婚の不成立(結婚の無効宣言)という理解で対応されます。

結婚によって家族の形成を目指したけれども、それには至らなかったという理解には学ぶところがあります。

 

 本日は現代社会が向き合う結婚観について考えてまいりました。

 2000年頃から、男性と女性の結婚のみならず、同性による結婚式についての問い合わせが教会に来るようになりました。

 結論から申しますと、日本福音ルーテル教会では神学的には同性婚について未だ議論されておらず、取り組んでおりません。

よって、教会が行う結婚式には同性婚は含まれていません。

但し、牧師の個人的な理解や取り組みから、同性婚に対する祝福は有り得るし、キリストの愛と赦しに含まれることと考えています。

 私自身は2000年から人権問題への取り組みを通して「同性愛」についての学びも続けています。

 ある人権問題に取り組むグループで企画した講演会において、講師に招いた他教団の同性愛指向を公言されている女性牧師は、その時点では同性愛者のための伝道所を開いておられました。

それは、「安心して礼拝できる場」の必要があったからであると述べられていました。

 また、「女性なら誰でも恋愛対象となり得るのか」という質問に対し、「そういうことではなく、愛した人が同性であったという、それだけのことなのです」というお答えを印象深く記憶しています。

 このこともまた、「隣人を自分のように愛する」との御言葉の通り、キリストの愛と赦しに含まれるものであると思うのです。

 日本福音ルーテル教会の伝道母体であるアメリカ福音ルーテル教会では、2009年に同性をパートナーとして持つ教職者が認められ、2013年には当事者として最初のビショップ(監督)が誕生しています。

このことにより幾つかの教会は離脱することとなりましたが、このようにすでに現代の世界と社会では性の多様性が認知されることにより、結婚観の多様性も認められるところです。

そして現在、離脱した教会は、団体へと戻りつつあるとの報告を聞きました。

また、教会組織としての同性婚は信徒に受け入れられているのですかとの質問に対しては、むしろ逆で、社会では認知され、信徒も受け入れているのに、教会組織に対応が遅れているとの口頭でありました。

しかしながら、日本福音ルーテル教会は未だ立場を明らかにはしていません。

沈黙による肯定でしょうか?

いいえ、沈黙は性の多様化に対する差別と偏見を助長しているということを日本の教会は気づくべきでありましょう。

旧約の律法を、新約の福音へと更新されたキリストの視点に立って、現代におけるキリストの愛と赦しの実践とはどうすることであるのかを学ぶ者あでありたい。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」


次週の説教題は「あなたが宝」です。