2024.11.3説教「イエスの涙」
全聖徒主日・召天者記念礼拝
「イエスの涙」
ヨハネ11章32-44
11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
11:37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
◆イエス、ラザロを生き返らせる
11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
11:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
本日は全聖徒主日、召天者を記念する礼拝です。年に1度、11月の第1日曜を覚えて礼拝にご参列くださいますことをうれしく思います。
本日も、在りし日の愛する方々との交わりを思い起こし、心温まる記念の時を過ごしてまいりましょう。
歴史の浅い・若い教会ですと教会で見送った方々も少なく、召天者記念礼拝と言えども、普段よりも少ない参列者であることもしばしばです。
東京池袋教会は117年を越え、召天者にも厚みがあり、召天者記念礼拝の歩みも深められて来たことと思います。
さて本日、召天者を記念する礼拝で聴いてまいります聖書の言葉は、先ほど朗読された3つの聖書箇所の最後に読みましたヨハネによる福音書11章32-44節です。
まず32節で、「マリア」という名前が出てまいりますが、この人はイエスの母とされたマリアではございません。
マルタという姉とラザロという兄を持つ、マリアという名の人でありました。
マリアの兄ラザロが病死し、その葬儀の場面が、今日読んでいただきました福音書の言葉です。
11章35節の言葉に、
「イエスは涙を流された」
とあります。
聖書の中でも珍しい、キリストが涙を流される場面です。
イエスは、なぜ涙を流されたのでしょうか。
聖書の伝承によりますと、この後、イエスはラザロが葬られた墓を開けさせ、「ラザロ、出て来なさい」と呼びかけ、死人が復活するという奇跡を起こされます。
いくら聖書とは言え、イエスが人を復活させる場面は、ここだけが証言する出来事です。
「墓を開けよ」というイエスに、姉のマルタが「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と「ことわり」を言う場面は、死のリアリティが迫ってまいります。
イエスは、涙を流されると同時に、2度心に憤りを覚えておられます。
悲しくも腹立たしい、悲しいほどに腹立たしいとも受け取れるイエスの心情が描かれています。
このことから、イエスは悲しくて泣いているのではなく、何事かに憤っておられることがわかります。
それは「死」そのものに対する憤りでありましょう。
人々がラザロに抱いていた夢を中断し、絶望させている死。
人生のすべてが死で終わりであるかのように思わせ、人々から希望を奪い去っている死。
イエスの憤りは、「死の暴挙」に対する憤りでありましょう。
死に、人生を終わらせることは許されてはいない。
死に、人々を絶望させることは許されてはいない。
死に、人から希望を奪うことは許されてはいないのです。
本日の箇所の直前、11章4節でイエスは、
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」
と語られています。
「神の栄光」とは、神の心が現れることを指しています。
その通り、イエスはラザロの復活によって、神の心を示されました。
神が人の命を尊び、慈しむことを見せてくださったのです。
聖書の語る「神の愛」は、「慈しみ」と呼ばれるものです。
「慈しみ」とは、現代で言う「愛」という言葉の古風な言い方です。
ところが、慈しみは愛よりも深い意味を湛えている言葉です。
慈しみは見えるものだけに限らず、見えないもの、喪ってしまったものに対する愛をも含んでいます。
すでに失われたもの、もう元には戻らないものへの愛と憐れみが、慈しみというものです。
失われつつあるから、より愛しく思えること。
喪われてしまったから、より深く惜しまれること。
人の心に湛えられている、このような思いが慈しみというものでありましょう。
最後に、宗教というもの、特に「葬儀」の役割について考えてまいります。
宗教は、人生における「問い」について答えます。
それは、
人は、どうして生まれたのか。
人は、何のために生きるのか。
人は、死んだらどうなるのか。
という問いです。
そして、葬儀の役割とは、これらの確認であるのです。
人は、望まれ、求められて生まれて来た。
人は、愛するために、また愛されるために生きている。
人は、惜しまれ、尊ばれて見送られる。
キリスト教では、命は神から預かったものであり、死を越えて神にお返しするものと捉えています。
人の命は、神から生まれ、神に返るものであるという教えです。
また聖書は、死の向こうに「永遠の命」と呼ばれる「憩いのみぎわ」である神のふところがあることを語ります。
このことの「しるし」として、私たちは召天者を記念するのです。
本日、私たちの愛する者たちも、そして私たち自身も、望まれて生まれ、愛されるために生き、尊ばれるべき命に生かされていることを覚えて、命の記念をしてまいりましょう。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
次週の説教題は「神さまの愛にみちびかれて」です。