2024.12.8説教「平らな世界」

待降節第2主日

「平らな世界」

 

ルカ3章1-6

◆洗礼者ヨハネ、教えを宣べる

 3:1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、

 3:2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。

 3:3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

 3:4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。

 3:5 谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、

 3:6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

 

イザヤ

40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。

 40:4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。

 40:5 主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

 40:6 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。

 40:7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。

 40:8 草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。


「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

待降節第2主日、キリストの降誕に備える期間であるアドベントの2週目を迎えました。「アドベント」とは、「来る」という意味です。

御子の「降誕」、神の国の「訪れ」という「来るべきものが来る」ことを知らされます。

 

本日与えられました福音書の日課は、ルカによる福音書から聴いてまいります。3章1節、

「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」

と始まります。

 皇帝ティベリウスとは、初代ローマ皇帝アウグストゥスに次ぐ2代目の皇帝であり、在位年は西暦14-37年でした。そうすると、ティベリウスの治世15年目は西暦29年ということになります。

 それに続き、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であったのは西暦26-36年のことであり、カイアファが大祭司であったのは西暦18-36年でした。

 こうして、イエスの受難に関わる登場人物が明らかにされています。

この時期、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに「降った」のです。こうして、洗礼者ヨハネの出現となり、それは神の言葉の「降臨」に始まったと記録されています。

洗礼者ヨハネが宣べ伝えたのは、「罪の赦しを得させるため」の「悔い改めの洗礼」でありました。

 

洗礼者ヨハネは、「洗礼」という悔い改めの形としるしをもたらした人物ですが、彼はいったいどこから、何から「洗礼」という形を導き出したのかと興味を惹かれます。

 

洗礼者ヨハネによる「洗礼」の起源・源流として考えられますのは、創世記7章に描かれている「ノアの箱舟と洪水」の故事であると言われます。

全地は罪ゆえに水に沈み、神がノア一族から世界を再創造されたという物語です。

私自身は、出エジプトすなわちエジプト脱出後の40年にわたる荒れ野の旅にも「洗礼」に至るきっかけを見ています。

と言いますのは、エジプトからシナイ半島へと紅海を渡り、渇きの中で岩からの水のほとばしりを受け、ヨルダン川を再びくぐってカナンの地・今のパレスチナに至る途上で、水をくぐる度に神の民とされていく印象は鮮やかです。

本日の旧約聖書の日課にも興味深い記述がありました。

マラキ3章1-3節です。

「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。

だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。

彼は精錬する者、銀を清める者として座し/レビの子らを清め/金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を/正しくささげる者となるためである。」

 この2節の終わりに、

「彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ」

とあります。

 この「洗う者」という比喩に、洗礼者ヨハネの面影を覚えます。

 以上、洗礼者ヨハネの出現について振り返りました。

 

 次に4節、「これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである」とルカは解説します。

そもそも、「神の子の降誕」を預言したのはイザヤでありました。西暦前700年頃のことでした。

確かめますならば、イザヤ7章14節、

「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」

であり、イザヤ9章5節、

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる。」

であります。御子の降誕まで、あと700年を隔てる預言です。

 ルカは、イザヤの預言から洗礼者ヨハネを指し示す言葉を取り上げます。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」

「叫ぶ者の声がする」

 本日の福音書では、ルカはかつてイザヤが告げた「荒れ野で叫ぶ者の声」と「洗礼者ヨハネ」を重ねて告知しています。

 4節冒頭で、ルカは「これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである」と語っていますが、実は「書いてあるとおり」ではないのです。

 説明するよりも、イザヤ書そのものを読むことによって、その違いは明白です。

イザヤ40章4節では、

「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」

とあります。

 イザヤが「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ」と語るところを、ルカは「谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる」と引用しています

 要点は、イザヤの言う「谷は身を起こし」ということと、ルカの引用した「谷は埋められ」という表現の違いです。

 ルカの引用したイザヤの言葉に違いが生じたわけは、ルカの引用元がヘブライ語の旧約聖書からではなく、ギリシャ語に翻訳された旧約聖書からの引用であったためであろうと考えられます。

 ギリシャ的で合理的な考えからすれば、でこぼこな大地は山を削って谷を埋めれば平らな世界が出来上がるわけですが、旧約聖書のメッセージはそのような人間的合理性ではありませんでした。

「谷自らが身を起こす」、この一点に神の心が表されています。

 

 まず、ルカが言うように「谷は埋められよ」という視点から見てまいります。

谷という欠けを何で埋めるのか、ということを考えさせられます。

 私たちはそれぞれに、自分自身の欠けを持っています。

欠点や弱点と言ってもいいかもしれません。

自分が足りないと思うもの、満たされていないもの、求めているものとも言えるでしょう。

これらを総じて、聖書は「谷」と表現しています。

 そこで神の心の表れである「谷が身を起こす」というイザヤ本来のメッセージから学びます。

イザヤ9章1節以下を引用しますと、

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

・・・

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」

イザヤは語ります。「闇の中を歩む民」と「死の陰の地に住む者」のために「ひとりのみどりごが生まれた」と。

ここで「生まれた」とありますが、過去を語っているのではありません。

神が約束されるところ、それはすでに叶ったものとして表現するのが「ユダヤ式」なのです。

 神は「闇の中を歩む者」が「光の中を歩む者」となったので独り子をお与えになるのではありません。

「死の陰の地に住む者」が「日の下で生きる者」となったので独り子をお与えになるのでもありません。

 

「闇の中を歩む者」は「闇の中を歩む者」として、

「死の陰の地に住む者」は「死の陰の地に住む者」として、

神から独り子を賜るのです。

 

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」

「闇の中を歩む者」として大いなる光を見、「死の陰の地に住む者」のままに彼らの上に、光が輝いたのです。

それは、神が彼らに目を留め、彼らのために独り子を賜ったということによって、彼らにスポットライトが当たったのです。

「闇の中を歩む者」、「死の陰の地に住む者」を満たしたものは、神のまなざしという光であり、独り子の誕生という希望でありました。

 このように、「谷が身を起こす」ということは、谷の欠けが何かで満たされる、誰かに補われる、誰かが助けるということではなく、谷が谷として神に知られ、谷自らが誇りを持って身を起こし、谷のままで神の救いを仰ぎ見る、ということでありました。

 イザヤ40章4節、「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。」とは、神の前に谷が谷として身を起こすことを目の当たりにして、谷を抑圧し、軽蔑していた山々は自らの態度を恥じ、身を低くせよ、との告知であったのです。

 

私たちはそれぞれに欠けを負う者でありますが、神は欠けを補う程度のお方ではなく、欠けた者を欠けたままに認め、引き受けるお方として示されています。

 

また、神は人間の罪ゆえに、神の民を失いました。神もまた、大いなる喪失感を負っておられるのです。

それゆえ、喪われた民に独り子を与え、罪より贖い、すなわち罪のものとなった人間を神のものとして十字架によって神の独り子を代価とし、神の民として取り戻されたのです。

 

あなたを取り戻すことにより、神の喪失は満たされるのです。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」


次週の説教題は「ヨセフのクリスマス」です。