2025.1.12説教「わたしのもの」

顕現後第1主日

「わたしのもの」

 

イザヤ43章1-7

43:1 ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。

43:2 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。

43:3 わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。

43:4 わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。

43:5 恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り/西からあなたを集める。

43:6 北に向かっては、行かせよ、と/南に向かっては、引き止めるな、と言う。わたしの息子たちを遠くから/娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。

43:7 彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者。


「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

新年、第2週目の礼拝を迎えました。

先週の日曜日は、まだ1月5日、礼拝にお見えになれなかった方々もおられることと思います。

新年に当たり、この年も神よりの祝福がありますように。

本日の福音書の日課によれば「主の洗礼」を覚える主日となりますが、本日は主日のもう一つの側面であります顕現後第1主日として、旧約聖書の日課であるイザヤ書43章1節以下より御言葉を聴いてまいります。

 

新年には信仰においても、今年こそ、「信仰をものにしよう」「信仰を自分のものにしよう」「信仰をしっかりとつかもう」と抱負をいだかれる方もおられることでしょう。

このような「前向きな信仰者」に対して、本日のイザヤ書は一石を投じるかのような御言葉を告げています。

イザヤ書43章1節、

「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」

と。

 ここで創造主として立つ神は、「あなたはわたしのもの」と宣言されます。

 このように、キリスト教信仰は、「神を自分のものとする」あるいは「信仰を自分のものとする」こと「以前に」、そう「以上に」ではなく「以前に」、自分自身が「神のものとされている」ことを「知らされる」ところにキリスト教信仰の本質があります。

 

 では、どのように神は私たちを御自分のものとされるのか、されたのかを見てまいります。

 先ほど読みました43章1節に、

「恐れるな、わたしはあなたを贖う。」

という神の呼びかけがありました。

「贖う」(あがなう)という言葉は日常で使うことはありませんから、キリスト教信仰の内実を表わす言葉でありますけれども、一般的には内容の分からない表現となっているように思います。

「贖う」という言葉を理解する上では、出エジプト記6章6節でよく説明されています。

「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。」

 この節の「奴隷の身分から救い出す」という説明が、「贖う」という言葉の意味となります。

すなわち、「代価を払って奴隷を買い、自分のものとする」という行為のことでありました。

転じて、「罪の奴隷となっている人間を、神は御子(キリスト)という代価を支払って、御自分のものとして買い戻してくださった」ということです。

これが「罪の赦し」と「救い」と呼ばれる「福音」(良い知らせ)となりました。

 

 しかしながら、「神が贖う」という福音は、旧約聖書の初めから提示されていたわけではありませんでした。

創世記に見る「贖う」という表現はわずかに一箇所、創世記の48章16節、

「わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に/数多く増え続けますように。」

と、イスラエルの父祖・3代目のヤコブの言葉としてあるのみです。

 「贖う」という言葉には、壮大な歴史の背景があります。

折に触れて紹介しますが、ここでも少し見てまいりましょう。

 創世記6章からの「ノアの箱舟」のエピソードを見ますと、

6章7節、

「主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』」

とあります。

 ここでは「贖う」という救いではなく、再創造という神の行為が描かれています。

そして、神は洪水による再創造の後に、再び後悔されることになります。8章21節、

「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。』」

とある通りです。

これにより、神による人間の救いは「贖い」へと向かうことになります。

 再創造という神の行為は、人間の罪に対する神の「徹底報復」のようにも思えます。容赦しないという神の裁きです。

 世界史を見ますと、文明以前からの「徹底報復」の時代に終止符を打ったのは、紀元前1750年まで古代バビロニアを統治した王・ハムラビによる「ハムラビ法典」です。

 「目には目を、歯には歯を」で知られた、現存する世界で4番目に古い法律です。

 「目には目を、歯には歯を」という文言は、旧約聖書でも見ることが出来ます。出エジプト記21章24節、レビ記24章20節、申命記19章21節に書かれています。これらはモーセに関わる時代であり、モーセはハムラビの後、250年ほど遅れての人物であると考えられます。

 実際、旧約聖書の最初の5巻である「モーセ5書」と呼ばれる聖書の規範が成文化・文字として書かれたのは紀元前598年から始まる「バビロン捕囚」と呼ばれる新バビロニアでの捕虜時代のことでした。

 つまり、古代バビロニアのハムラビ王が目指した社会の文化的影響を受けた側面を、「目には目を、歯には歯を」という言葉の引用に見ることができるように思います。

 「目には目を、歯には歯を」に代表されるハムラビ法典がもたらしたものは、「徹底報復」と呼ばれる時代に終わりを告げ、「同害報復」という「相手から受けた痛み以上に、相手に帰してはならない」という社会の実現でした。その他、代価を支払う賠償の制度や、特に女性の権利の保護法なども法典には含まれます。

 さて、イザヤ書に戻りますが、イザヤ書は3世代に及ぶ歴史が綴られた預言書です。単に3世代というだけでなく、200年間にわたる3つの異なる時代を伝えています。

  1. 神の裁きによる国の滅亡(こうして捕虜時代へ)
  2. 神の慰めの約束(ペルシアによる解放と苦難の僕の約束)
  3. 貧しい者への福音(国の復興と神の民としての派遣)

 本日読んでおりますのは43章、40章から55章までの「慰めの時代」の言葉です。「民の状態はまだ捕虜である。しかし、神は慰めを約束された」という、まだ見ぬ希望に向かっての始まりでありました。

 イザヤ第1世代に対する預言者の使命は「慰めてはならない」「祈ってはならない」というものでした。この同時代の預言者の苦悩をエレミヤが伝えています。7章16節、

「あなたはこの民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声をあげてわたしを煩わすな。わたしはあなたに耳を傾けない。」

 神の裁きは甘んじて受けねばなりませんでした。なぜならば、裁きの向こうに赦しがあるからです。

 このように、イザヤ書を通読して来ますと、40章に至るまで慰めを聴くことが出来ません。しかし、40章を迎えた途端、第2世代への神よりの慰めがあふれ出すのです。イザヤ書40章1節、

「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。」

この一言がどれほど聴きたかったことか、捕虜の民にとってはもちろん、イザヤ書を通読する者にも感動の一言となっています。

 かつて神は、天地創造の業を「後悔」されました。それゆえ、民への罰として「徹底報復」とも言える洪水による再創造を行われましたが、その「徹底報復」についても「後悔」されました。神ご自身の二度にわたる「後悔」を経て、民は神による贖いの福音へと招かれることとなりました。

 イザヤ43章3節、

「わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。」

ここには、救い主として立つ神がおられ、身代金、代償を備える神の決意が語られています。

 続く4節でも、

「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。」

と、「身代わりの人」としての苦難の僕(・キリスト)を立て、諸国を代償とされる旨が述べられています。

 また、「わたしの目にあなたは価高く、貴い」という、神の惜しみない愛が語られます。

「あなたはわたしにとって貴い」

この一言には、人を立ち上がらせ、国を復興させる力があります。

 神の「後悔」によって民への罰は解かれ、慰めの時代へと入ったのです。

 5節では、

「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り/西からあなたを集める。」

とあります。

「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」

とは、「国を失い、捕虜となり、そして、解放される」ことの、「これから」と言うのではなく、神の罰の中に在っても、捕虜の地であっても、「これまで」も神は共におられたのではなかったか、とふり返させられます。

 そして、「連れ帰り」「集める」という神の救いが始まります。

 6節でも、「連れ帰れ」との、神の強い意志が告げられています。

 この御言葉の通り、イスラエルのユダヤとしての復興は、散り去った民を求め、訪ね、集めつつ、奴隷となった同胞を買い戻しながら、国の復興が進められて行くのです。

(1月26日の礼拝で旧約聖書の日課がネヘミヤ記となっていますから、この復興の続きを辿って行こうと予定しております。)

 

 7節、

「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者。」

とまで神は語ってくださいます。

 民の解放と国の復興を通して、民は神の民となり、神は民の神として再び立ち、こうして神は御名の尊厳を回復されたのです。

 さて、年始に当たって、神の前に集う私たちに対して、神は、「あなたはわたしのもの」と語りかけてくださいます。

 この神に、私たちはどう答えるのでありましょうか?

 私たちもまた、神の言葉を真似て「あなたはわたしのもの」と言うわけにはいきません。信仰は「神を自分のものとする」ことではなく、「神のものとされる」ことなのですから。

 

 本日のイザヤ書の日課のあとに、この神の呼びかけに対して「答えるべき」言葉が記されています。

 それは、イザヤ書44章5節、

《ある者は「わたしは主のもの」と言い/ある者はヤコブの名を名乗り/またある者は手に「主のもの」と記し/「イスラエル」をその名とする。》

であります。

「わたしは主のもの」です。

 公明正大な心で、この告白を捧げる新たな一年とされますよう、神よりの祝福と導きをお祈り致します。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」


次週の説教題は「満たす」です。