2025.06.08説教「教会の誕生」
聖霊降臨
「教会の誕生」
使徒言行録2章1-21
2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
2:7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
2:10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
2:12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
2:13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
2:14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。
2:15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。
2:16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
2:17 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
2:19 上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。
2:20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。
2:21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
神よ、聖霊を送ってくださり、ありがとうございます。
主を愛する皆さん、聖霊降臨祭、おめでとうございます。
天から聖霊がくだる、すなわち神から聖霊をいただくという聖霊降臨の出来事は、キリストの復活から50日目に起こりました。それゆえ、50日目を意味するペンテコステと呼ばれています。
聖霊をいただくことによってキリストの弟子たちに何が起こったのか、使徒言行録の2章14節には次のように記録されています。
「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。『ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください』」
このように、弟子のペトロは、キリストを知っていただきたい思いにあふれ、できるだけ多くの人に届くように声を張り上げたのでした。
「知っていただきたい」、これは、そうぜずにはおれないことでした。
この弟子たちによる証言によって、イエス・キリストが神の子であると伝え始められ、キリストの教会は生まれたのです。
ゆえに、聖霊降臨祭は教会の誕生日であり、このことを記念するのです。
まず、聖霊について、私たち人間は何も知りません。
しかし、知らないから、また、見えないからといって聖霊をあなどってはなりません。
おろそかにしてはいけません。
神ご自身も見えない存在でありますが、誰があなどったりするでしょうか。
聖霊について、4つの福音書それぞれでの注目度について、例えば「聖霊」という言葉が使われている頻度を見てみますと、
マルコでは、4回。
マタイでは、5回。
ヨハネでは、3回。
そしてルカでは、13回となっています。
このように圧倒的にルカによる福音書が聖霊について伝えています。
そして、使徒言行録という記録は、ルカ福音書の第2巻としてルカ自身によって書かれたものであるのです。
今日、読んでおります使徒言行録は、弟子たちによる伝道の記録でありますが、同時に聖霊の働き、聖霊による出来事の記録でもあるのです。
聖霊降臨の出来事は、その最も大いなるものであると言えましょう。
イエスご自身によって語られた聖霊についての言葉を、ルカは12章10節で次のように伝えています。
「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」
キリストの十字架によって何でも赦していただける気持ちでおりますが、キリスト者・クリスチャンにとって、もし神に赦されない事柄があるとすれば、それは「聖霊への冒涜」であることが取り上げられています。
聖霊と訳される言葉は、旧約聖書ではルーアッハ、新約聖書ではプネウマという単語です。
これらは、神の霊なる働きを表す言葉でありますが、文脈によって様々な訳がなされており、霊をはじめ、息、風、心、精神などが挙げられます。
ヨハネ福音書3章8節には、次のような御言葉があります。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」
日常のふとした会話の中で「どういう風の吹き回しか」と表現されますが、人間にとっては意外である、そのような吹き回しこそが聖霊の働きであると例えられます。
人間の知性や理性では、どこから来て、どこへ行くのかを知る由もありませんが、キリスト者は神からいただく霊性(信仰)によって、神から出て、神に帰ることを知らされています。
また、聖霊は、いつでも、どこでも、誰にでも働く神の力であると漠然と考えてはいませんか。
私は聖霊という存在に、その働きに怖れを持っています。旧約聖書の登場するダビデ王はよく知られる人物ですが、ダビデが王として召されていく場面を忘れることはありません。
サムエル記上16章12節ですが、
「エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。『立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。』
サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。
主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった」
この聖霊に関わる出来事を読むとき、聖霊という力は、人間の期待や努力によって働くものではないことを知らされます。
ただ神の欲されるところで、神の欲する人に対してのみ働いております。
決して、人間の知性や理性では捉えることのできない聖霊が、ここにおられます。
そこで、聖霊降臨の出来事とは、どのようなものであったのかを読んでまいりましょう。
使徒言行録の2章1節を見ますと、
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」
とあります。その日は「五旬祭の日」でありました。
キリスト教以前のイスラエルには三大祭がありました。春の「過ぎ越し祭」と「五旬祭」、そして秋の「仮庵の祭」です。
イエスの受難の始まりである過ぎ越しの祭の食事が「最後の晩餐」でありました。
この過ぎ越しの祭から7週間後、すなわち50日目に行われるのが「五旬祭」でありました。
過ぎ越しの祭には大麦の初穂を捧げ、五旬祭では小麦の初穂を捧げるのです。
このように、イスラエルの祭とキリスト教の祭は、時を同じくして祝うこととなりました。
次に2章2節を見ますと、
「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」
とあります。
福音書を書いたルカは、見えないものを見せる努力をした記録者でもあります。
例えば、ルカ福音書3章22節のイエスが洗礼をお受けになる場面では、
「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」
と表現しています。
そして、本日の使徒言行録2章2節-3節では、
「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」
と表現し、雷鳴の轟のような音と共に、炎のような舌と形容されるメラメラと燃え上がる炎のイメージを提供しています。
これらルカのヴィジュアルな、映像化された記述により、聖霊を表すシンボル・マークとして「鳩」や「炎」が用いられるようになったと考えられます。
聖霊は弟子たちのもとへと、どのようにくだられたのでしたか。
3節には「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。
この描写は、一人一人に聖霊が注がれる、ということではありません。
「分かれ分かれ」とは、元は一つにつながったままでありながら、その先は一人一人の上に分かれ分かれになって、と聴くことが自然であろうと受け取ります。
聖霊もまたお独りなのですから。
私たちに向かって延ばされ、差し出された神の御手。
その指先は一人一人の上に留まり、一人一人の魂に触れている。
そして、その手が私たちをグッと握りしめる時、そこに教会が生まれる、というイメージを与えられます。
そして、再び神の手が開かれる時、私たちはキリストの証人として送り出されるのです。
一人一人、一つずつ聖霊をいただくということではなく、一つの聖霊をみんなで分かち合っている状態が、聖霊降臨という出来事ではなかったかと読み取ります。
このことは一人一人の神観念、神観があるという人の側での理解を退けます。
信仰もまた、お独りの神を分かち合っている・お独りの神に与っているのです。
さて、5節を見ますと、
《さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。》
五旬祭の巡礼のために戻ってきていたのかとも思いましたが、そうではなく、かつて離散したユダヤ人であろう者たちが、その信仰深さにより救いの約束の実現を見ようと帰国して来た人たちであるようです。
また、11節には、
《ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。》
とあるように、ユダヤ人のみならず、ユダヤ教へと改宗した外国人たちも含む、神による救いの現われを待ち望む者たちの姿が伝えられています。
そして、彼らの目前で聖霊降臨の出来事は起きたのです。
すると、帰国した者たちがかつて住んでいた国々の言語で、聖霊を受けた弟子たちが神の働きを語り出すのを聴いた、というのです。
聖霊降臨によって、様々な背景の人々の言葉が通じ合っていくという出来事と合わせて、これは必ずお話しすることでありますが、創世記の故事であるバベルの塔を紹介しなければなりません。
創世記11章1節以下よりお読みします。
《世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。》
塔の建設によって世界を見渡す神のようになろうとする人々の罪を罰し、神は言葉を乱されたという故事です。
神が言葉を乱されたことが人々の罪への罰であるならば、人々の意思の疎通が聖霊降臨という神ご自身の働きによって回復されていくことは、聖霊による赦しであると言えましょう。
こうして、聖霊によって赦され、力づけられたキリストの弟子たちは、14節、
《すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。》
と、語り始めるのです。
神が聖霊によって引き出してくださった弟子たちの溢れる思いにより、キリストの教会が誕生しました。
ユダヤ人を中心とした初めての教会であるエルサレム教会と、のちに初めての異邦人教会となるであろうシリアのアンティオキア教会が、急速に成長していくこととなる原動力となった人々は、先ほどお話ししました、五旬祭の日に聖霊降臨を目撃し、体験した「信心深いユダヤ人」と外国人をも含む「ユダヤ教への改宗者」たちであり、彼らが最初のキリスト者とされたのです。
神の言葉により、世は生まれました。神の息吹により、人間は命を賜りました。神の約束により、御子は生まれました。
神の聖霊により、教会が生まれました。洗礼の聖霊により、私たちは新たに生まれました。すべてを生み出してきた神の聖霊を、私たちの未来を生み出す希望として信じます。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
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