2025.11.16.説教「曲がり角の向こう」

聖霊降臨後第23主日

「曲がり角の向こう」

 

ルカ21章5-19

21:5 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。

21:6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

21:7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」

21:8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。

21:9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」

21:10 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。

21:11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。

21:12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。

21:13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。

21:14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。

21:15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。

21:16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。

21:17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。

21:18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。

21:19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」


「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

 教会の暦では聖霊降臨後の主日も本日を合わせて2回となりました。

暦の終わりであり、新年を迎える準備をする大きな節目を迎えました。

 教会の新年は、クリスマスを迎える準備をする待降節・アドベントから始まります。

年末年始を1年の区切りとする風習に対して、1歩先に出て、目ざめて生きる教会と言えるでしょう。

 教会暦の終わりでは、当然のこととして、キリストの十字架や復活のこと、また、最期の審判や世界の終わりについての聖書箇所が読まれます。

この終わりのことを「終末」と言います。

 

 聖書では、創世記の天地創造から語り始められますから、おのずと、黙示録の最期の審判へと向かうわけですが、最期の審判が世界の終わりである、というわけでもないのです。

 なぜならば、木を植える話で始まる創世記ですが、黙示録においても木を植える話で終わるのです。

つまり、単純に世界が終わるという話ではなく、再び始まるという再創造の出来事へと向かっているのです。

 ルターさんが言ったとされる言葉に、「明日、世界が終ろうとも、私は今日、リンゴの木を植える」というものがあります。

まさに黙示録が木を植える話で終わることと重なる言葉です。

「終わりの話」というのは、実は「新しく始まる話」でもあるということを、初めに心に留めておきたい。

 

 世間から見ると、また多くのクリスチャンから見ても、ここでいう「終末」は聖書的な、あるいは信仰上の話題の一つに過ぎないと思われる方は多いことでしょう。

しかし、「たかが終末、されど終末」です。

終末思想というものは、一つの宗教を生み出すほどの大きなテーマとなり得るものなのです。

 ルーテル教会では、この聖書の終末思想をことさらに強調することは控えておりますが、新興宗教などでは、神の名のもとで、終わりの時は明日かもしれないとの緊迫感をもって強調しています。

 ルーテル教会の牧師として働いていた者であっても、この終末思想の緊迫感から、もはや強調せずにはいられないとして、ルーテル教会を退職し、終末思想を強調する団体へと移って行った例もあります。

ルーテルに留まるよう説得もしましたが、一部のことが全てになった考えでは、もはや他のことが入る余地はなかったのです。

 また別の事柄ではありますが、ルーテル教会の牧師として働いてきた者の中から、時として聖霊を強調したい、あるいは、祈りを強調したいとして、他教派へ移った者もいます。

 このことは、牧師のみならず信徒においても、それぞれの関心や興味があるわけですから、聖書や信仰の一部分だけを強調するならば起こり得ることでありましょうし、起こって来たことでもあるのです。

 常に立ち返る処ですが、人生を道に例えるならば、そこには出発点と到着点が必要です。

人生の流れを考える上でも、流れの源流と向かうべき大海原が見据えられていることが大切です。

 どうして生まれたのだろう、

 何のために生きているのだろう。

 死んだらどうなるのだろう。

と、人の悩みは尽きません。

これらの人生のテーマを自ら引き受けるためには、道を見出さなければなりませんし、流れを必要としています。

 聖書の語る、あるいはイエスが示される「終末」とは、信仰者にとっての到着点であり、流れ着く先の大海原ということができます。

行く当てがあるということが、道においても流れにあっても、安心というものを与えてくれます。

信頼と言ってもいいでしょう。

 それゆえに、クリスチャンの生き方というのは、終わりから物事を考える生き方であると言われます。

かしこまって表現するならば、「終末から今を考える生き方」ということになります。

 このことは、すでに教会に集う私たちの祈りにおいても表現されていることですが、

「赦された者として生きる」

ということです。

また、最期の時を、

「主に委ねます」

という信仰に表れています。

 終わりという大きな節目は、新たに始まる、改めて始めるための出発点であるということを学びました。

 すなわち、私たちはイエスを知るということの、その初めから、十字架に架かられた方、復活された方、最期の審判に立たれる方であるということをわきまえてイエスを知りました。

 

しかしながら、イエスの弟子たちには、そのような情報はなかったのです。

イエスが弟子たちとの伝道旅行中に、これから起こることを再三教えられましたが、弟子たちには何のことか分かりませんでした。

 イエスが復活のキリストであるという情報を知っている私たちから見ると弟子たちの姿は滑稽に見えますが、それは止むを得ない流れの途中にあったことでした。

 そのような弟子たちが、イエスが神の子であるということについて半信半疑な弟子たちでありましたが、その彼らの不信を圧倒する出来事が「主の昇天」でありました。

イエスと出会い、いつ、どこで、喜んでいいのか戸惑うばかりの弟子たちでありましたが、「主の昇天」に際しては、まったなしで大喜びし、神殿に行って人々に証言し、抑えることができなかったのです。

 イエスと共なる日の終わりを見て、彼らの信仰は始まったのです。

終わりを見て、これまでのすべてが明らかになったのです。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」