2026.2.8説教「百年のともし火」

顕現後第5主日

「百年のともし火」

 

マタイ5章13-20

◆地の塩、世の光

 5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

 5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

 5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

 5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

◆律法について

 5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

 5:18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

 5:19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。

 5:20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」


「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

本日は、年に1度の教会定期総会の日を迎えました。

本日は教会の総会礼拝として、伝道を考える機会としてまいります。

 

キリストの弟子たちは、イエスとの出会い、十字架での別れ、復活のキリストとの再会、主の昇天による別れを経験します。

そして、聖霊降臨の出来事によって力づけられ、キリストを伝える伝道へと送り出されます。

その目指すところは、再臨によるキリストとの再会でありましょう。

 

キリストの復活から50日目のことを「ペンテコステ」と言います。

この聖霊降臨の出来事の後、聖書が次に伝えるのがキリストの弟子・ペトロの説教です。

使徒言行録2章14節、

《すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。》

とあるように、まずペトロが民衆へと語り始めました。

 ペトロが語るように、「知っていただきたいことがあります」という祈りと、熱意と、目撃者としての使命感が、語る者として立たせるのでありましょう。

 説教者とは、しばしば何を語ればよいのかと途方に暮れるものですが、その時は「何を伝えたかったのか」と伝道者を志す出発点を振り返ります。

 ただし、伝道者とは、伝えたいことを語るのではなく、伝えるべきことを語るのが、旧約聖書の預言者時代からの使命でありました。

 こうして、キリストの弟子たちによる初代教会の伝道が始まります。

 

 キリストの弟子たちに遅れて、キリストを信じる者たちの迫害者であったユダヤ教の指導者であったパウロが回心し、キリストの伝道者となります。

使徒言行録には、パウロの3回の回心の記録があり、先日のパウロの記念日にそれを学びました。

2回目の回心の記録である使徒言行録22章6節を見ますと、

《「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。》

とあります。

復活のキリストとであったパウロは、

「主よ、あなたはどなたですか」

「主よ、どうしたらよいでしょうか」

とキリストの呼びかける声に向かって問うています。

 こうして、キリストによってパウロも伝道者として立てられ、晩年にはローマに滞在してキリストを伝えるに至っています。

 

 さて、本日与えられましたマタイ福音書5章から見てまいりましょう。

 幾つかの事柄が書かれていますが、本日は5章14-16節に注目致します。

《あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。》

とのキリストの教えです。

 この御言葉は、かつて遠きフィンランドから日本へと宣教師を派遣したフィンランド・ミッションの目的であり悲願であったことでしょう。

 そのために、初めここ池袋の地では宣教師館が建てられ、神学校として日本人9名の伝道者を生み出したのです。

 その後、すでに1907年から千駄ヶ谷で始められていた東京伝道の取り組みが、巣鴨の地を経て、池袋へと移されて、1931年には第一会堂が与えられたのでした。

 東京池袋教会にとりまして、今年は宣教119年目を迎えています。

 およそ120年間、私たちの教会は「世の光」として立ち、キリストを伝えて来たのです。

 この使命は、これからも変わることはありません。

 私たちはキリスト者として、また世の光として立つとは、どのようなことかを現代的に考え、示して行くことが求められているのです。

「あなたがたは世の光である」

本日は、「百年のともし火」と題して、この御言葉から聴いております。

この印象深く、慈しみ深い御言葉をいただくにあたって、同時に、イエスはヨハネ福音書8章12節で、

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」

と語っておられることも心に留めておきたい御言葉です。

「あなたがたは世の光である」とイエスはおっしゃいました。

この「あなたがた」と呼びかけられている人々とは誰のことであったでしょうか。

 先週の礼拝では、マタイ5章から御言葉を聴きました。

その5章1節には、

《イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。》

と、イエスが山に登り、「山上の説教」を語られるにあたっての様子が書かれていました。

 

 イエスは、「この群衆」がやってくる様子を見て、山に登られました。

「山上の説教」が語られたであろう、ガリラヤ湖北方の丘をイスラエルを訪れた際に見てまいりました。

 少しボコボコとしているものの、なだらかな丘陵地帯は辺り一面草原であり、ところどころに立つアザミやポピーの鮮やかな色が印象的でした。

大勢の人々に語り掛けるには絶好の場所のように思われました。

 イエスが腰を下ろされると、「弟子たちが近くに寄って来た」とありました。

 群衆が押し寄せて来たからイエスは山へ退かれたのでしょうか。

 そのイエスの後を追って、弟子たちだけが山に登ったのか。

 ここは、様々な意見が交わされているところですが、ここから始まる「山上の説教」の内容を見ますと、弟子たちに限らず、群衆へと語られたであろうと思われます。

 では、「この群衆」と呼ばれる人々は、どのような人々であったでしょうか。

これについて4章の終わり、23-25節で述べられていました。

《イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。》

と、大勢の群衆がやってきた様子が伝えられています。

 イエスの評判が、「シリア中に広まった」こと、さらに「デカポリス」からも大勢来たことが述べられています。

 シリアには離散したユダヤ人もいたでしょうけれども、デカポリスは宗教も異なる土地、豚を飼育し食す文化である外国人の住む地域です。

 これらの地域からユダヤ人だけが集まってきたと考える方が難しいように思えます。

 

 マタイによる福音書は、ユダヤ教徒にキリストを伝えることを目的としていたとされており、ここに描かれるイエスのお姿は立派な教師であり、弟子たちも優れた者たちであることが要求されます。

 だからと言って、ユダヤ人以外の外国人たちが排除されていたのかというと、そうではありません。

 マタイ1章の系図では、4人の外国人妻の名前が明記されており、2章のイエスの誕生物語では、外国人たちの祝いの訪問が書かれています。

 

 そして4章12節からのイエスが伝道を始められた場面では、ナザレからガリラヤへと「ついに主が動いた」ことが述べられていました。

 この「ガリラヤ」という土地について、マタイ4章15節では、

《「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ》

と紹介されている「異邦人のガリラヤ」へとイエスは動き、そこから伝道が始められたのでした。

 このマタイ福音書が語る「異邦人のガリラヤ」での伝道の始まりでの出来事こそ、ヨハネ福音書が語っていた、

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」

と言われる出来事であることでしょう。

 マタイによる福音書の書き出しを振り返りますと、やがてキリストによって開かれるであろう、しかもキリストの十字架によって開かれるであろう、「すべての者」への神の救いすでにが見通されていることがわかります。

 輝いて見えることばかりが「光」ではないでしょう。

 マタイが伝える伝道の始まりは「異邦人のガリラヤ」でありました。

イエスはまず、そこに住む人々・そこに生きる人々の所へ出かけ、寄り添うことから始められました。

それによって、

「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」

と伝えられる約束が実現し始めたのです。

 光とは、神ご自身の現われを指すものと思われます。

暗闇に住む人々に寄り添うキリストを通して、人々は寄り添ってくださる神の現われを希望の光として見たのです。

 とすると、

《あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。》

というイエスの勧めは、光を奪われた人々に寄り添うことを通して、「あなたがたこそ世の光である」ことを伝えなさいというメッセージとして聴こえてくるではありませんか。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」