2026.2.15説教「すばらしい」

主の変容

「すばらしい」

 

マタイ17章1-9

17:1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。

17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。

17:4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。

17:6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。

17:7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」

17:8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

17:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。


「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

 本日は、主の変容・イエスのお姿が弟子たちの前で輝いたことを記念しています。

 そして、今週は「灰の水曜日」を迎え、イエスの十字架での受難を覚える四旬節(レント)が始まります。

灰の水曜日から日曜日を除く40日を数える期間を四旬節として過ごし、主の復活・復活祭(イースター)を迎えます。

実際の灰の水曜日の数え方は、春分の日を過ぎ、最初の満月の次の日曜日が復活祭となっていますから、そこからさかのぼって年ごとの灰の水曜日が決まります。

昔から四旬節の期間は慎み深く過ごし、賑やかさ、華やかさは控えられる伝統があります。

それゆえ、礼拝でもグロリアは歌いません。

また、イエスの受難を覚え、克己して大好きなものを絶って過ごす方もおられます。

外国の古い習慣では、祈り、断食、慈善活動が奨励されており、四旬節の期間は肉を食べないという肉断ちをし、それゆえ、灰の水曜日の前夜は謝肉祭・カーニバルを行い、盛大に騒いで、灰の水曜日に備えたということです。

「灰」の由来は、前の年の棕櫚主日(受難主日)、棕櫚の葉を道に敷いてイエスを迎えた出来事の記念に使った葉を灰にして、翌年の灰の水曜日に額に塗って記念したことによるものです。

さて、本日はマタイによる福音書から、「主の変容」の出来事を読んでまいります。

まず17章1節を見ますと、「六日の後」という書き出しで始まります。

いつから、何から、六日の後であるのでしょうか。

直前の16章21節からの段落を見ますと、イエスによる受難の予告が語られています。

イエスが、初めて弟子たちにご自身の受難による死と三日目に復活することになっているという予告をされた場面です。

こののちにも、17章22節と20章17節の計3回、イエスはご自身の受難と復活の予告をなされることになります。

直前の受難予告においては、16章22節で、弟子ペトロの「主よ、とんでもないことです」との言葉に、イエスは「サタン、引き下がれ」と、最も厳しい言葉で叱責されています。

このように、六日の後とは、受難予告から六日の後、あるいはペトロへの叱責から六日の後のことでありました。

イエスは、またしても山に登られます。

マタイによる福音書では、イエスはよくよく山に登られます。

5章の山上の説教に始まり、15章、本日の17章、そして最後の場面である28章でも山に登られます。

ここでは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネという3人の弟子だけを連れて行かれます。

それは、これから起こるであろう主の変容の出来事の証人とするためでもありましょう。

2節、

《イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった》

とあります。

 主の変容は、輝きと光で描かれます。

顔が輝く出来事の記述は、モーセが神にまみえたときと、再臨のキリストの御顔が輝いていると伝えられています。

いずれも、神の心の映しでありましょう。

 また、黙示録1章16節に現れる再臨のキリストのお姿は、御子本来の輝くお姿であろうと思われますから、主の変容での輝くお姿とは、本来あるべき姿が垣間見えたに過ぎないことでしょう。

 いとも尊き主はくだりて、人と同じものになってくださったにもかかわらず、そのように貧しい者と等しく変容してくださった御子であるにもかかわらず、なぜ弟子たちに輝いて見せなければならなかったのでしょうか。

 それは、主の変容の出来事は、前述の主の受難予告での弟子たちの取り乱した態度に対する「神ご自身の応答」であると受け取れます。

 16章23節で、イエスがペトロに「サタン!」と叱責された時、「神のことを思わず、人間のことを思っている」とおっしゃっています。

 その弟子たちの戸惑いへの応答として、本来のお姿を示されると同時に、その場で弟子たちは、圧倒的な神ご自身の声を聴くことになります。

 3節、

《見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。》

とあります。

 モーセとは、エジプトで寄留民であったイスラエルの民が、モーセが率いることによってエジプトを脱出し、カナンと呼ばれる土地・かつてイスラエル民族の父祖たちが生きたパレスチナへと民を率いた人物、その途上で神より十戒を賜った人物がモーセでありました。

すなわち、モーセとは律法を代表する人物です。

 エリヤは生きながらにして神の元へ召されたとされる預言者でありましたから、旧約聖書時代の預言者を代表する人物です。

 彼らはイエスを交えて、これから神が起こされるであろう受難と復活について語り合っていたのでありましょう。

  4節では、ペトロが3人のための仮小屋の話をしていますが、これは、この素晴らしさ、この輝きを留めておきたいとでもいうような混乱した思い付きというべき発言に思われます。

 5節、

《ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。》

 ここで、私たちは、山にかかる自然界の雲を想像する必要はありません。

それらは、神ご自身の臨在を示すものであるでしょうし、同時にそれを隠すものでもあるでしょう。

 

 6節、

《弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。》

とある通りです。

 

 7節、

《イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。》

 人間は神の前では取るに足らぬものに過ぎません。

 にもかかわらず、イエスは彼らに触れて、起きなさい、恐れることはないと語りかけます。

 なぜならば、恐れてひれ伏す彼らには何も見えていなかったのですから。

 

 8節に至って、顔を上げた彼らが見たものは、イエスだけでありました。

モーセもエリヤも、人間は神の前では消え去るものに過ぎません。

イエスだけが、そこに留まっておられました。

 地に伏した、すなわち地に倒れた彼らにイエスが歩み寄り、起こされる様子は、人間の生と死における主の歩み寄りの映しと言えましょう。

 

 主の変容は、これから起こるであろうことの、そして将来起こるであろうキリストの出来事の先取りでありました。

 それは、「恐れることはない」とは、主の復活ののち、マグダラのマリアたちが墓場からの帰りに、復活の主と出会ったとき、彼らに語りかけた言葉を思い起こさせます。

 

 マタイ福音書が語る主の復活の出来事を見てみますと、弟子たちが復活の主にまみえるのは最後の28章16節です。

 そこで復活の主は山に登り、弟子たちと再会されます。

そこでは、死に対する主として、弟子たちに近づかれます。

復活の主として弟子たちに歩み寄ることは、のちの世に彼らを復活させるという、いつか弟子たちに起こるであろうことが先取りとして表されています。

ところで、マタイ福音書では、主の復活ののちの「主の昇天」は書かれてはいません。

主の昇天とは、マルコとルカだけが伝える記録です。

すなわち、マタイの伝えるキリストは、主の変容においてイエスだけが弟子のもとに留まられていたように、復活の主もまた、弟子たちと共に留まり、彼らを派遣する主として立っておられるのです。

 

マタイ福音書の結語は、

28章20節、

《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》

と締めくくられています。

 マタイの語る復活の主は、変容の主と同様、従う彼らの恐れを取り去りつつ歩み寄り、彼らに触れて起き上がらせる主であるのです。

 

 私たちはキリストに近づきたいと願いつつも一歩も近づくことが出来ない現実の中で、キリストご自身が変容するによって、私たちに歩み寄ってくださいました。

 こうして私たちが新たに生かされたように、今度は私たちが世界と向き合う時、この世界はまったく変わらないという失意の中に置かれようとも、確かに世界の一部である私たち自身が変わることによって・変えられることによって、世界が変わり始めていることをキリストは教えてくださいます。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」