2026.3.1説教「夜明け」
四旬節第2主日
「夜明け」
ヨハネ3章1-17
3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。
3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。
3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
本日は、ヨハネによる福音書3章1節から17節までを通して、ユダヤ教を代表するとも言えるニコデモという人物が、神の国を代表するイエスと初めて出会う場面を読んでまいります。
特に、3章16節に記された、
《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。》
との言葉は印象深く、よく知られた御言葉であります。
まず、ニコデモという人物について見てまいりましょう。
1節によれば、彼はユダヤ教の中でも最も律法に対して厳格に生きるファリサイ派と呼ばれるグループに属しており、ユダヤ人たちの議員であり最高法院のメンバーでありました。
また、10節を見ると、イスラエルの神学教師でもあったことがわかります。
ユダヤにおいては権威ある職業に従事する人物でありました。
2節を見ると、
《ある夜、イエスのもとに来て言った。》
とあり、まず「夜」という場面から始まります。
ユダヤの議員でありながらもイエスに注目し、近づこうとするならば、やはりユダヤ人たちの見る目から隠れて夜に行動するのかなと思われたかもしれません。
多くの場合はそうですが、教師であるニコデモに関してはそうとも言えません。
と言いますのも、「ユダヤの教師たる者、夜間は勉学にいそしむべし」と奨励されていましたから、イエスとの問答もまた、ニコデモにとっては研鑽の一つであるとも言えます。
何よりも、ユダヤ教からのニコデモと、神の国からのイエスとの対面でしたから、夜という背景により「イエスの素性はまだ闇に包まれている」という神秘性であると受け止められます。
なぜならば、イエスがメシア、すなわちキリストであるとは言われていませんし、イエスご自身も「わたしがそれである」などと宣言なさってもいません。
すべては神秘的であり、謎めいており、メシアの秘密は保たれたままであるのです。
2節の続きを見ますと、
《「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」》
とあり、ニコデモがイエスに好意を寄せていた理由が述べられています。
また、イエスによる「しるし」という奇跡に強い関心を寄せていたこともわかります。
実際、当時のユダヤ教では奇跡に一目置かれており、ニコデモが言う通り、神が共におられるしるしと受け止められていました。
このように、ニコデモのイエスに寄せる好意が、イエスの「しるし・奇跡」によって呼び起こされたものであったことは言うまでもありません。
けれども、単なる好意というものに留まっている限り、実際には何も出来事は起きないのです。
そこで、3節、
《イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」》
とニコデモに教え始められます。
この御言葉は、本日の中心的なイエスによるメッセージとなっています。
人が新たに生まれる、これは聖霊による奇跡であります。
生まれ変わることなしには、いかなる人も神による救いを見ることは出来ない、と告げられています。
その意味は、5節、
《イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。》
との説明です。
すでに1世紀ごろのヨハネ福音書の教会時代においても、「水と霊」という言葉の通り、「洗礼」は人が新たに生まれる出来事として考えられていたことがわかります。
なぜ「洗礼」が新しく生まれることになるのかと言いますと、洗礼という出来事とは、まず聖霊による奇跡によって人はキリストの死と復活に合わせられるということ。
こうして、キリストの復活によってもたらされる「永遠の命」と呼ばれる新しい命に生きる者とされると受け止められていました。
シンプルに言うならば、人を新たに生まれさせるのは、聖霊による奇跡ということであります。
4節では、
《ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」》
とあります。
ニコデモとの問答も、もはやここまで。
すでに物わかりの悪いトンチンカンな答えとなっており、これ以上の対話は不毛です。
イエスがおっしゃったのは、新しく生まれ変わるという奇跡を通らなければ、人は避けがたくいつまでも人であり、神の救いの外に置かれたままであるということなのです。
11節を見ますと、
《はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。》
と語られており、イエスはご自身を「わたしたち」とおっしゃり、ニコデモには「あなたがた」と告げておられます。
「わたしたち」とは、イエスと弟子たちのことではなく、イエスの言葉になぞらえて、福音書の著者ヨハネはイエスとヨハネ教会の群れを指して、「わたしたち」という一つの共同体として記すのです。
そして「あなたがた」とは、ここではニコデモを代表とするユダヤ教でありましょう。
「わたしたち」と「あなたがた」の間には決定的な隔たりがあることの宣告でもあります。
そして、ユダヤ人の奇跡を求める信仰では、この隔たりを乗り越えることは出来ないのです。
この隔たりを乗り越える道は一つ、新たに生まれることであるとイエスは教えられています。
ここまでを見ると、ニコデモという人物は、ファリサイ派であり、ユダヤの議員であり、神学教師でもあるのに、物わかりの悪い浅はかな印象でありますが、彼は変えられていくのです。
と言いますのも、のちにヨハネ福音書7章50節では、
《彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」》
と、ファリサイ派の仲間たちがイエスを不当に扱いそうな時に、我々は正当な裁判をするべきだとイエスを弁護するような発言をしています。
ニコデモにとっては精一杯の勇気ある行動でありましょう。
また実は、イエスの十字架上の御遺体を下ろす場面に、このニコデモもいたのです。
ヨハネ19章38節、
《その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香(じんこう)を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。》
と記されています。
イエスとの初めての出会いでは全く冴えなかったニコデモでありましたが、しだいにイエスに惹かれてゆく信仰には抗えなかったのでしょう。
議員仲間と共にイエスを埋葬し、イエスへの思いが誰よりも強く、深かったことが記録されています。
この後、ニコデモにはもっと大きな奇跡、水と霊から生まれるという不思議な出来事、新しい命に生きるという人生の転換という必ず訪れるであろう人生の夜明けが待っていることでしょう。
新しく生まれ変わるという奇跡を通らなければ、人間は避けがたくいつまでも人間であり、神の救いの外に置かれたままであるのです。
キリスト者とは、信仰ゆえの洗礼という出来事を通して、新しく生まれるという人生の夜明けを体験することです。
しかし、まだ夜の中にある友にとっても、それは日ごとに夜明けが訪れるように、遠く思われても人生の夜明けは必ず訪れるべきものとして神が備えてくださっていることを信じます。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
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