2026.05.03説教「わたしが道」
復活節第5主日
「わたしが道」
ヨハネ14章1-14
14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
14:8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、
14:9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
14:13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14:14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
本日の福音書の日課は、ヨハネによる福音書14章1節から始まります。
その第1節、イエスによる御言葉です。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」
何という力強い言葉でしょうか。
そして、イエスご自身が引き受けてくださるという手ごたえのある責任感ある御言葉として響きます。
迷い挫ける者でも信頼を引き起こされます。
本日の御言葉は、イエスが約束してくださる「永遠の命」に至る道への導入の言葉です。
ヨハネ11章で紹介されたマルタとマリアの兄弟ラザロの復活の場面で教えられているように、神より賜った命は死で終わるものではありません。
また、死というものには、人生を中断し、人を絶望させる力は許されてはいません。
神から賜る命とは、私たちが生まれる前から神の元にあり、ひととき「わたし」という肉体の器に預かり、体を喪う時には再び神が引き取られる命です。
生まれてから死ぬまでという私たちが考える肉体を伴う人生より、神から賜り・受け取り直す霊的人生、すなわち永遠の命というものは長く、人が生まれる前から在り、死後も霊として、魂として養われるものであると聖書は教えます。
私たちは人生の長さについて、1日たりとも延ばすことは出来ず、またお迎えを早めることもできません。
私たちの命は授かったものであり、主が与え、主が奪われるものだからです。
誰が人の人生について「短い」と言えましょうか。
主を知ることは私たちの満足となりますが、1日の命にも主によって知られているという主の満足があることを信じます。
そして、主のお許しがなければ、誰もその命を終えることは出来ないとわきまえます。
さて、本日は「永遠の命」というキリスト教の死生観について聴いておりますが、特に14章6節の御言葉に注目致します。
「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』」
このイエスが告げられた「わたしは道である」という言葉について、ルーテル教会の源流であります宗教改革者のマルチン・ルターは、「わたし《が》道である」と翻訳しました。
イエス以外の「道」は考えられないという、改革者としての強い意志と決断が込められています。
「道」というものには、出発点があり、到着点があり、その二つの点に結ばれた線を道と呼びます。
それゆえ、道はしばしば人生に例えられる言葉でもあります。
どうして生まれたんだろう。
何のために生きているんだろう。
死んだらどうなるんだろう。
人生を道に例えた場合、その出発点とは何でしょうか。
同様に到着点とは何でしょうか。
この問いに答えてくれるものが宗教であると思っています。
無神論的に人生を考えますならば、「たまたま生まれて、死んだら終わり」ということになってしまいかねません。
これに対し宗教では、「命は授かりものであり、死して引き受けられる魂」という人生観や死生観を提供しています。
神のみならず、人と人との間に在って、望まれて命が芽生えたこと、待ちわびられ喜ばれて生まれたこと、そして誕生を通して祝福されることは、人生の出発点として確固たるものとなります。
こうして、喜ばれ生かされる人生には意味が与えられます。
そして、命を与えたもう神が、人の死を通して再び神の元で引き受けてくださる約束は、到着点としてふさわしいものです。
信仰によって与えられる出発点と到着点は、信仰という道を示してくれます。
ところが、出発点を持たないならば道は始まりません。
また、到着点を持たず、あるいは見失ってしまった状態を「迷う」と言うのでしょう。
迷う者にとって、「わたしが道」と呼びかける声は、どれほどの信頼と安らぎにつながる言葉となるでしょうか。
本日の聖書箇所には、トマスとフィリポという二人の弟子が登場しています。
どちらもヨハネによる福音書が注目する弟子たちであり、他の福音書では弟子の一人としての名前が記録されるのみです。
トマスについては最近の説教で取り上げておりますが、本日の箇所では14章5節に登場します。
「トマスが言った。『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか』」
「その道」をトマス自身が知ろうと欲する心情が記されています。
このトマスの問いに対するイエスの応答が「わたしは道である」であったのです。
続いて14章8節で、今度はフィリポが、
「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」
と、父なる神を知ることを欲し、知って満足することを求めています。
このフィリポの問いに、イエスは、
「わたしを見た者は、父を見たのだ」
ときっぱりとお答えになりました。
確かに、私たちは「知ること」を欲し、「知ること」によって満たされます。
このことは教会生活や聖書の学びの醍醐味でもあります。
時には、イエスが「わたしは道である」と仰っているにもかかわらず、信仰者は「わたしの道・信仰者自身の道」を探しているような錯覚が起きてしまいます。
そうだとしても、私たちには、神に至る道は知りません。
本日のイエスの永遠の命への招きの言葉から聴くべき福音は、私たちが主によって「知られている」ということなのです。
14章3節、イエスは仰います。
「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」
神は、神ご自身が「知っている」者を迎え入れられます。
(もちろん、神が知らぬ命などないのですが)
私たちキリスト者は、信仰によって「神に知られていること」の喜びを与えられたいのです。
そして、今この時に、互いに知られていることの喜びを確かめ合いたいのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
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