2026.05.17説教「人をつなぐもの」
主の昇天
「人をつなぐもの」
ルカによる福音書24章44-53
24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
24:50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
24:52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
24:53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
本日は昇天主日、十字架と復活の後、キリストの昇天を記念する礼拝です。
お読みしましたルカ福音書によれば、キリストは復活後、40日目に昇天されたと伝えられます。
それから10日後、すなわち復活から50日目に聖霊降臨の出来事が起こることになります。
さて、キリストの昇天と言いましても、どの福音書も主の昇天を記録しているわけではありません。
イエスのご生涯を記録した福音書の初めはマルコによる福音書です。
世に出されたのは西暦70年頃のことでした。
マルコ福音書よれば、16章7節で復活の主はガリラヤへ行かれることとなっています。
そして16章19節、弟子たちとの再会後、キリストは昇天されたと記録されています。
マタイによる福音書には主の昇天の記述はありませんが、復活のキリストによる「ガリラヤで会おう」との言葉により、福音書の最後の場面はガリラヤの山の上とされています。
ヨハネによる福音書には直接的な主の昇天の記録はありませんが、20章17節の復活の朝「まだ父のもとへ上っていない」と、昇天をうかがわせる言葉はあります。
そして、ヨハネ福音書の補足的部分では、最後の場面はガリラヤ湖畔となっています。
このように、復活されたキリストとの再会がガリラヤで約束されているにもかかわらず、ルカの舞台はそうではないのです。
ルカ24章50節を見ますと、キリストご自身が弟子たちをべタニアへ連れて行き、彼らの目前で主の昇天が起こったと記されています。
本日はルカ福音書ですから、ルカの視点で主の昇天を聴いてまいります。
ルカによる主の昇天の場面で印象的なことは、24章52節にある弟子たちが「大喜び」している姿でありましょう。
どの福音書を見ても、弟子たちが喜ぶ姿を描いているのは、ごくわずかです。
弟子たちは受難以前のイエスとの日々に中で、なぜ喜びを表現していないのでしょうか。
そして、主の昇天に際し、何が彼らを大喜びさせたのでしょうか。
また、キリストを愛する私たちは、大喜びする者でありましょうか。
確かに私たちは、信仰者としてそれぞれにキリストを知り、福音と出会えた喜びを体験し、洗礼に授かって大喜び致しました。
そして今、何を喜ぶ者でありましょうか。
弟子たちがイエスと出会った以後も、心底喜べなかった心境として、マタイ福音書の最後の場面を挙げることができます。
それはマタイ28章16-17節、
「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」
ここに記されている通りです。
弟子たちがイエスに対して信頼を持って喜びたくてもできなかったわけは、それぞれの思いの内に「疑い」があったからとも言えるでしょう。
しかしマタイ福音書は、弟子たちの抱える疑いをそのままに、疑う心があろうとも、ありのままの弟子たちを派遣するキリストを伝えています。
父と子と聖霊という主の御名の前に、人の疑いなど何物でもない、ということです。
人が信仰的であるかどうかではなく、キリストが救い主であることが大切なのであり、すべては神が人間を救おうと欲しておられることにかかっているからです。
ルカ福音書にあっても弟子たちの心情は同様であったことでしょう。
にもかかわらず、主の昇天の出来事は、弟子たちそれぞれの葛藤を拭い去り、心から喜び、抑え難く大喜びしてしまう事態をもたらしています。
主の昇天、それはどのようなものであったのでしょうか。
ルカによれば、イエスの受難の際に、弟子たちは逃げ出しています。
そして、思いもしなかった復活のキリストとの再会では、恐れおののくばかりでありました。
主の昇天に際し、いよいよ決定的な別れになるかもしれないというその時、弟子たちは、いと高き神の元へと昇りゆくキリストを伏し拝んだ後、大喜びへと移されたのです。
そればかりか、イエスの受難によって彼らが恐れをいだくエルサレムの街中へと向かい、民衆の中心である神殿から離れず、神を褒め称えたのでした。
主の昇天という出来事の何が弟子たちを奮起させたのか。
彼らがイエスと出会って以来の疑いは、このお方は本当に神の子なのだろうか、ということ。
本当に神の元から来られたのだろうか、ということであったことでしょう。
これは、私たちもまた免れない疑いの誘惑であります。
ところが、弟子たちの目前で天に上げられるという出来事は、彼らにとって単に「キリストが行く」という意味ではありません。
キリストが「来たところに帰る」という意味となるのです。
弟子たちは、キリストが帰るところを目撃することによって、イエスが来られたこところを知らされたのであり、神の元から来られた方であったという保証をいただいたのです。
主の昇天により、イエスが神の子である意味と、弟子たちがイエスと出会ったことの意義が明らかにされました。
こうして弟子たちは喜びつつ、直ちにエルサレムへと帰り、神殿へと向かうのです。
そこには最早、人々への怖れも、自分の命だけは守ろうとする保身も、キリストへの疑いもありません。
ルカ24章48節、
「あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」
怖れを取り払われ、人々の中へと出かけて行く弟子たちの姿を鮮やかに描くために、場所はガリラヤではなくエルサレムがふさわしいと、ルカは福音書編纂に際して判断したのでしょう。
私たちはどうでしょうか。
私たちを大喜びせずにはいられない日々へと招くものは何でしょうか。
少なくともキリストの昇天の出来事は、キリスト者にとって死の向こうにある希望とされたのではなかったか。
最後に、主の昇天の場面の記述に注目します。
24章50節、
「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」
主の昇天に際し、キリストの証人とされる弟子たち。
キリストは弟子たちの前に立ち、彼らと向き合い、手を挙げて祝福されます。
そして、祝福しつつ、彼らを離れ、神の元へと上げられます。
人との別れの際、私たちはどのように見送られ、見送るのか。
人をつなぐものとは、何でありましょうか。
弟子たちもまた、上げられて行くキリストを拝みながら見送ったことでしょう。
けれども、そのお姿が自分たちから見えなくなるや否や、踵を返して神殿へと馳せ参じた様子を聴きました。
だがキリストは、昇天しつつもなお彼らの背を見送り、祝福のために挙げた主の手は下ろされてはいないと信じます。
弟子たちからキリストのお姿が見えなくなろうとも、キリストが彼らを見失うことはありません。
キリストの祝福の手には、私たちへの期待と信頼が込められています。
私たちは祝福によって、キリストからの期待と信頼を受けているのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
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