2026.06.28「一杯の水」
聖霊降臨後第5主日
「一杯の水」
マタイ10章40-42節
10:40 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
10:41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
10:42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
マタイによる福音書10章では、イエスの12人の弟子のリストが挙げられ、続いて弟子たちを伝道に派遣するための心得が述べられていました。
この派遣に伴うイエスの教え・派遣説教の最後を締めくくる言葉が、本日与えられた御言葉です。
その最後である42節に、
「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」
と語られています。
本日は、この御言葉から聴いてまいります。
まず、「はっきり言っておく」との呼びかけですが、各福音書に見られる特徴的な呼びかけの言葉であり、4福音書で74回も使われています。
ここで「はっきり」と翻訳されている言葉は、ギリシャ語では「アーメン」という単語です。
「アーメン」をどう訳すかが問題ですが、かつての口語訳聖書では「よく」あるいは「よくよく」と意訳されておりました。
私たちが祈りの終わりや讃美歌の最後で使います「アーメン」という言葉は、旧約のヘブライ語でも新約のギリシャ語でも共に「その通りになりますように」との意味で用いられます。
「アーメン」とは「その通り」という意味でありますが、イエスの呼びかけにおいては、現在は「はっきりと」と訳されています。
次に印象的であるのは「冷たい水一杯」という表現です。
いったい当時のパレスチナに「冷たい水」などというものがあったのだろうかと思いました。
聖書の舞台であるパレスチナ地方の北方にガリラヤ湖という湖がありますが、そのガリラヤ湖のさらに北にある水源の町フィリポ・カイサリアに行ったことがあります。
現在はバニアスと呼ばれています。
そこでは、ヘルモン山からの雪解け水が伏流水となって大きな洞穴から噴き出している様子を見ました。
ここには正真正銘の冷たい水でありました。
イエスと弟子たちが旅した地域は、ガリラヤ湖から南方の死海に至るまでの地域です。
この地方で冷たい水と言えば、井戸から汲み上げたばかりの水か、家の中に汲み置きして保管されていた水ということになりましょう。
「一杯の水」にまつわる印象深い思い出が幾つかあります。
一つ目はわたくしが神学生の時、神学校の寮でのことです。
かつては几帳面な性格であり、寮生活も不自由なく過ごせるように、貧しいながらも一通り何でも揃っていましたから、様々な友人たちが常にお茶を飲みに来るような場所でありました。
ですから、人の部屋を訪ねるよりも迎えることの方が多い毎日でした。
そんなある日、一人の年上の同級生の部屋を訪ねたところ、「よく来たね」と迎え入れてくれ、「せっかく来てくれたから、何もないけど水でもどうぞ」と湯呑茶碗で一杯の水を出してくれたのです。
私がしていたことは、確かに「おいしいお茶」を出すことでしたが、彼がしてくれたことは「温かい心」を差し出してくれたように感じられました。
「もてなす」とは、こういうことだと実感しました。
もう一つ、忘れられない記憶があります。
牧師になって間もない初任地でのこと、地方でしたが野宿されている方々がおられ、折に触れて缶詰などを携えて訪ねておりました。
その人は橋の下にダンボールで囲った場所で暮らしておられました。
「トントン」、「こんにちは、少しお話を聞けませんか」と尋ねますと、「どうぞ、どうぞ」と受け入れ、座る場所を空けてくださいました。
こちらは野宿をせざるを得ない方々の安否確認で回っていること、少々の非常食を配っていることを伝えました。
すると、せっかく訪ねてくれたからということで、茶渋で色が変わってしまった茶碗で一杯の水を出してくださいました。
衛生面は気になるところですが、水道など近くに見当たらない場所で飲料できる水を出してくれるという行為に、ここにも「もてなす」心を感じました。
人となられた神・イエスのご生涯は、人間と同じものとなられ、人と同じものを飲み、罪人と呼ばれている人々と同じ食卓を囲むことでありました。
同時に、マタイ20章22節の、
「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」
とのイエスの問いかけを思い起こします。
さて、本日のイエスの言葉は派遣説教、弟子たちを伝道者として派遣するにあたっての勧めです。
40節を見ますと、イエスは、
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」
と説明されています。
これは、42節の「わたしの弟子だという理由で」ということにも関わるものです。
イエスが弟子たちを派遣されるということは、神ご自身が弟子たちを派遣されるのだということを意味しています。
つまり、弟子たちを受け入れる人々はイエスを受け入れるのであり、ほかならぬ神を受け入れることになるのです。
また、41節を見ますと、
「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける」
とあります。
これは旧約聖書時代の預言者のことを言っているだけではなく、「これからのこと」としてイエスは語られています。
マタイの時代、教会での奉仕者が伝道者と呼ばれる者たちだけでなく、預言者としての使命や義人と呼ばれる正しい人たちの役割も整えられて行きます。
すなわち、キリストの復活と聖霊降臨の出来事によって誕生した教会が、キリストを伝える福音宣教者、従来の預言者的使命、そして教師としての役割を担い、伝道者たちが教会から教会へと巡回していたことがうかがえます。
最後に、42節の
「この小さな者の一人に」
という言葉を考えます。
福音書が語る「この小さな者」とは、直接的には「霊に乏しい弟子たち」のことを指しています。
そして、広義には「小さくされている人々」、軽んじられている人々、低く見られている人々を含むと理解できます。
大阪の釜ヶ崎で、カトリック教会フランシスコ会の本田哲郎司祭が活動しておられます。
本田神父は、2000年に「小さくされた人々のための福音」と題して、私訳の新約聖書を出版されました。
出版に当たって、本田神父は次のように述べられています。
「わたしたちのだれよりも、ナザレのイエスの境遇に近く身を置く、世の小さくされた人たち、例えば寄せ場の日雇い労働者たちにピンとこない解釈や言い回しが、イエスの境遇とは程遠い生活に浸っている私たちに分かるはずはないのです。…そこで思い切って…小さくされた人々の視座を借りた翻訳を試みることにしました」(「小さくされた人々のための福音」はしがきP6-7)
こうして見えてくるのが「低みに立つイエス」のお姿です。
例えば、食べ物がない人々への炊き出しの活動において、イエスは配る側ではなく、配られる人々の列に共に並んでおられるという姿であり、震災救援活動で言えば助ける側でなく救護を待つ人々の側におられるということです。
また、インドで活動されていたマザー・テレサの言葉には、
「道に倒れている方こそ、私にとってのキリストなのです」
と語られていました。
これらの言葉、体験から学ぶならば、私が訪ねた「小さくされている人」こそ、私にとってのキリストとなることでしょう。
改めて42節を読みますと、
「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」
と主はおっしゃいます。
その「報い」とは、常にただ神の厚意によって与えられるものです。
私たちがキリスト者として何をしたらよいでしょうかと問うならば、その行為がたとえ一杯の水を差し出すことであったとしても、神は見逃されない、忘れることはないということです。
イエスご自身から溢れる御言葉と惜しみない御業は、魂の渇きを覚える人々への一杯の水のようでありました。
この世で低くされた人々を訪ね求め、語りかけ、魂を潤すイエスの歩みは、まるで水が低きへ流れるように、世界の低み低みへと流れる川のようでありました。
そのために来られたイエスを信じることにより、私たちには平安と救いが用意されています。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
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