2026.07.05説教「重荷」

聖霊降臨後第6主日

「重荷」

マタイ11章25-30

 11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。

 11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。

 11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

 11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

 11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」


「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

マタイによる福音書11章28節、

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」

この御言葉と向き合う時、私にはいつも葛藤という「重荷」が伴います。

教会という所は、傷ついた人を助け、悩む人を受け入れ、旅人をもてなす所ではなかったかと思うからです。

しかし実際には、これまでほんの数人の方々にしか、そのように接することは叶いませんでした。

 できなかった理由はたくさんあります。

しかし、この御言葉と向き合ったかと言えば、理由をつけて逃げてきたのではないかとも自省しています。

 特に、関西では阪神大震災の復興以後、仕事にあぶれた労働者の方々が、東京では想像できないほどの数の方々が路上生活を余儀なくされておられました。

 当時、大阪の教会では、朝、昼、晩と、路上生活にある方々が教会を訪ねて来られました。

 高い塔に十字架を掲げれば、昼夜問わず光り輝く十字架を目印にして頼って来られる。

掲示板に、先の御言葉を掲示すれば、知らぬ間にロビーや礼拝堂で寝ておられるという事が起こります。

 私が不在の時には対応に窮した施設の職員が警察に来てもらうというトラブルが何度も起こりました。

 助けを求めてきた人を助けない教会があるのか?

 どの教会においても常に私の抱える葛藤であります。

もちろん、教会だからと言って何でも出来るわけではありません。

具体的には、相談を聴いた上で、医療や福祉の様々なサービスがありますから、相談者をどこに繋ぐのかを一緒に考え、行動することを通して援助することになります。

 人と人が共にいることを阻む要因の一つが「におい」であることを、これまで経験してきました。

それは切なく、つらい記憶です。

 

「重荷」という言葉は、数あるキリスト教会の、教派というもの違いをよく表すものです。

 ある教派で「重荷」と聞けば、「私には負いきれません」と辞退しますが、別の教派で「重荷」と聞けば、「はい、喜んで!」と応えています。

これは「重荷」という言葉の意味の受け取り方の違いや、使い方の習慣の違いで、「神様から与えられた務め」という意味で使われています。

 

さて、聖書には「重荷」と訳されている言葉が35箇所ありますが、意外に福音書には3回しか出てこないのです。

しかも、本日お読みしましたマタイ11章28節の御言葉は、よく知られているにもかかわらず、マタイだけが収めているイエスの言葉です。

「重荷」という言葉は、新約聖書においては福音書以上に、むしろパウロが思いを込めて使っている言葉と言えます。

例えば、ガラテヤ6章2節では、

「互いに重荷を担いなさい」

と勧め、また、

同じく6章5節では、

「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」

と語っています。

 ところが、「重荷」と訳されている原語・翻訳前の言葉は様々で、すべてが同じ意味というわけではないのです。

 

パウロの使う「重荷」の原語を調べてみますと、6章2節の「互いに重荷を担いなさい」では、バロスという言葉が使われています。

これは「重し」というもので、人が負うことのできない困難さが強調されています。

 この意味は、宗教的な律法による重荷や、人の努力では拭えない罪による重荷が考えられます。

他方、5節の「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」ではフォルティオンという、船の積荷などを表す言葉が使われており、人が負うことのできる重荷が考えられています。

 つまり、自分で負うべきものは自分で負い、負わされたものや負いきれないものは互いに担い合うことが勧められています。

このように、「重荷」は大きく二つの意味で使われています。

 福音書にある他の2箇所というのは、どちらも同じ文章で、マタイ23章4節とルカ11章46節に載っています。

「彼ら(ルカ:律法の専門家)は背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」

以上が、わずかに福音書が語る「重荷」ですから、マタイが語る「重荷」とは、宗教的に人が負わされた、律法による戒めや要求と、それによる罪という、人が負いきれない重荷ということになります。

 イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃいます。

 ここに、キリストの愛があります。

受容があり、赦しがあります。

それと同時に、癒しが起こされます。

 イエスは「疲れた者」の「逃げ場」となっておられます。

聖書は、旧約聖書の時代から人に優しい社会であったように読み取れます。

アブラハムがイサクを捧げようとするときに与えられた羊、人の罪を負わされて荒れ野に放たれるヤギ、カナンの地での「逃れの町」の設置、犠牲を捧げる礼拝など、人々が生きるために逃げ道や逃げ場が用意されてきました。

ところが、律法という神との契約であるはずのものが、権力者たちの自己保身という乱用によって、人々は逃げ場を失い、律法が重荷とされたのです。

 

 現代の疲れの特徴は、逃げ道や逃げ場がないという問題のように思います。

たとえ体の疲れは取ることができても、負わされた課題や問題による心の疲れは拭うことはできません。

 イエスの「休ませてあげよう」との言葉は、単なる「受容」と「共感」に留まるものではないでしょう。

そこには「赦し」と「癒し」が与えられています。

 

 イエスの言葉は続きます。

マタイ11章28節、

「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」

 イエスに休息を与えられた者は、再び立ち上がることを呼び掛けられます。

しかし、また一人で重荷を担ぐのではありません。

今度はイエスが片棒を担いでくださるとおっしゃいます。

それが「くびき」です。

 これは、荷物を運ばせたり畑を耕したりする時に、家畜同士をつないで二頭立てにし、効率良く力を発揮させる方法です。

「くびき」を使う際の重要なのことは、つなぐ家畜二頭が同じ力であること、くびきの当たり具合が適切であることの二点です。

すると、荷は軽く、負い易くなるということです。

 この例えから、重荷の片棒を担ぐのはイエスであり、私が立てばイエスも立ち上がり、私が止まればイエスも立ち止まる。

しゃがみ込めばしゃがまれる。

疲れれば共に休まれる。

歩を速めれば共に早めてくださり、緩めれば緩めてくださるのです。

 教会がイエスのくびきに倣うならば、最も弱い立場にある者と共に歩むことが、イエスのくびきによって重荷を担い合うということでありましょう。

時には共に立ち止まるという勇気と決断を求められることも含んでいます。

 イエスが共に負ってくださる重荷は、人が抱えきれない負わされた重荷です。

 教会として負うべき重荷とは、人が一人では負いきれない状態に置かれていることへの関わりです。

人を孤独、孤立させている物事へ抗うことです。

イエスの御言葉から、それらが何であるかを学びたい。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」