2026.07.19説教「束と粒」

聖霊降臨後第8主日

「束と粒」

 

マタイ13章24-30、36-43

   ◆「毒麦」のたとえ

 13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。

 13:25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。

 13:26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。

 13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』

 13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、

 13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。

 13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

 

「毒麦」のたとえの説明

 13:36 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。

 13:37 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、

 13:38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

 13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。

 13:40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。

 13:41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、

 13:42 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

 13:43 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」


「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

 マタイ13章からの御言葉が続いている。

13章24節で

「天の国は次のようにたとえられる」

とあるように、13章は「天の国」についての「たとえ」である。

「天の国」については、先週も確かめたように、いわゆる「天国」のことではない。

マタイの言う「天」とは「神」のことであり、「神の国」についての「たとえ」であることを覚えておきたい。

「神の国」とは、どこか?と問うならば、人が生まれる前から在り、今も在り、そして人が死して神に引き受けられる所でもある。

また、キリストと聖霊がくだってこられた天の極みから、さらに、よみにくだり、キリストが立たれた地の底・塵の上まで神の世界である。

神が創られた世界が神の国であり、そして神が創られなかった世界は存在しない。

神無き世界は無い、と知らされる。

 

 24節は続けて語る、

「ある人が良い種を畑に蒔いた」

と。

これは先週の「種まく人」の御言葉のたとえを思い起こさせる。

 13章3節、

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」

と。

種を蒔かれた土地の様子や、蒔かれた種の育ち具合について聴いたのではなかった。

種まき人にたとえられるキリストが、御言葉の種は必ず芽を出すと確信して蒔かれたこととして聴いたのだ。

御言葉を聴く者は、キリストが御言葉の種は必ず芽生えると、確信をもってまかれているということに、信頼して聴くのみである。

これを「福音」という。

 

 本日の「たとえ」では、良い種が蒔かれた畑に、何者かによって毒麦も蒔かれてしまった事態が取り上げられている。

 この結末は、30節に書かれている。

「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」

 刈り入れの際に、毒麦は束にして焼き、良い麦は残らず集めて倉に納めることになる。

 この御言葉から与えられる「束と粒」というイメージから、この描写から学んでみたい。

 この「たとえ」を聞いた者が、自分は良い麦か、まさか毒麦かと一喜一憂するまでもない。

本日の毒麦のたとえの説明では、38節で、

「畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである」と説明されてはいるが、これは成熟したキリスト者の姿と言えよう。

先週の「種まく人」のたとえに聞いたばかりであるから、私たちはまだまだ「畑」のようなもので、「良い種」のたとえには及ばない。

蒔かれた福音の種が、浅い土地に芽生えたばかりである。

「私」という畑には、良い土地も悪い土地もあろう。

そして、良い種が蒔かれて芽生えるのであるが、時には外から悪い種がまぎれこむこともあるのだろう。

 

しかし、神は、魂の農夫である。

不毛の大地でさえ耕し起こし、肥沃な土地としてくださる。

たとえ良い種の狭間に毒麦が蒔かれようとも、良い種をしっかり育て上げ、間違うことなく刈り取ってくださる方である。

 

 まず、旧約聖書から、「束をほどく」という一つのエピソードを紹介したい。

それは、ルツ記である。

 士師の時代が背景であるから、イスラエルの民が40年にわたる荒れ野の旅を終え、カナン(パレスチナ)に定着してからイスラエル王国が成立するまでのこと、およそ紀元前1500年から紀元前1000年までの間の時代ということになる。

 ナオミという女性がいた。

夫と二人の息子と共に母国ユダを離れ、隣国へ移住した。

ところが、夫と息子たちは亡くなり、ナオミと外国人の嫁二人が残された。ナオミは嫁たちを里に返し、母国に帰ることにしたが、嫁の一人・ルツは同行し、ベツレヘムへと帰ってきた。

 ナオミの夫の親戚に、有力なボアズという人がおり、ルツは彼の畑で落穂拾いを許された(画家ミレーが描いた「落穂拾い」を思い出していただくとよい)。

ボアズは彼女をねぎらい、麦束をほどいてまでも彼女に与えた。

これはまだ話の序盤である。

 ボアズにとっての麦束は、この一年の働きの実りであり、正当な報酬であり資産である。

しかし、これをほどき、他者が生きるための糧として与えて行くところに、慈しみが現れている。

ルツ記は、これらの様子を「主の祝福」と呼んでいる。

 この「束をほどく」姿は、イエスの人との関わりを思い起こさせる。

 イエスの前には、権力者たちによって「束」にされた大勢の人たちがいた。

例えば、罪人、病人、徴税人、女性、外国人などが挙げられる。

 このように、人を束にして扱う考えや態度を「毒麦」としよう。

29節、

「主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない』」

 そうなのだ。

人は良い麦と毒麦を見間違う。

自分が引き受けたくないものを「罪人」と呼び、人の手に負えないものを「悪霊の仕業」と呼んだりする。

 そのように「束」にされ、弱さを押し付けられた人々が大勢いたのだ。

だから主は、終わりの時まではそのままにしておられる。

その時が来たならば、主は良い麦をしっかりと育て上げ、毒麦と間違うことなく、正しく刈り取ってくださる。

 

イエスは、そのような「束ねられている」一人一人の前に立ち止り、声をかけ、触れ合い、励まして送り出された。

その振る舞いには、赦し、癒し、救いがあった。

 

 私たちもまた、十把一絡げの「束」として扱われた経験はないだろうか。

そこでは、救いも希望も見いだせない。

たとえ、どんな状況に置かれていようとも、一人一人の声が聴かれ、忘れられてはいないところでは、慰めと安心が起こるのではないだろうか。

 束にされること、束をほどかれるということ、それぞれの扱われ方から、キリストのことを思う。

 

 良い麦の集め方については、

マタイ3章12節で、

「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」

と語られており、一粒残らず数えられることが示されている。

 キリスト者とは、この世で「束」にされてきた苦悩から、キリストの福音によって解放された者たちである。

それゆえ、教会のすべき働きは、「束」にされている人々を、キリストの福音と信仰によって、その束縛から解き放つことである。

 そのような束縛とは何かと言えば、子ども扱いすること、年寄り扱いすること、病人扱いすること、貧乏人扱いすること、変わり者扱いすること、よそ者扱いすることなどという、社会に蔓延しているモノやヒトの見方である。

 問題を抱えている人の前に立ち止まり、聴いてその人の様子を教えられ、問題を学んで解決に取り組み、共に歩むことである。

 そこに、キリストが共におられる、赦し、癒し、安心という救いが与えられることを信じる。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます」