2026.08.02説教「平和を語る」

平和の主日

「平和を語る」

 

ヨハネ15章9-17

15: 9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。

 15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

 15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

 15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

 15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

 15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

 15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

 15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

 15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

 初めに、7/28に発生した熊本地震による被災者の方々を覚えて祈ります。

終わりの見えない忍耐を、神のみが与え得る希望と慰めをもって被災者をお支えください。

被災者に対して懸命に関わる、医療従事者、自治体職員、現地の教会員と牧師たちの働きをお支えください。

一刻も早く、被災者の衣食住が整えられますように祈りつつ、私たちのすべきこと、出来ることをお示しください。

キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

本日は「平和の主日」です。

私たちキリスト教会の信仰する神は、平和の神です。

イエスの十字架の後、復活されたキリストは、弟子たちの前に現れ、シャローム!と主による平和を宣言されました。

まず、神との平和。

次に、人との平和が求められます。

これには、国と国との平和も含まれます。

そして、人間には自分自身との平和が必要です。

神との平和とは、イエスの十字架によって、すべての人に神への罪からの赦しと救いがもたらされたことによる平和です。

それゆえ、私たち教会は、キリストによる神との平和を聴くと共に、主の平和を分かち合うのです。

 

人の記憶は、年月と共に避け難く風化してまいります。

にもかかわらず、教会の礼拝が2000年を経ても風化しないのはなせでしょう。

それは、信仰者たちを中心にして週ごとに集まり、キリストの十字架での血と復活を記念し、受け継いできたからです。

礼拝はキリストの記念です。

以前、多磨墓地でお話したことではありますが、記念にまつわる一つの実話をお話します。

かつて、ある方が、教会を離れて50年を経たのちに、再び教会を訪れ、礼拝に欠かさず参加されるようになりました。

しかしながら、そのような日々もいつまでもは続けられず、入院生活を余儀なくされました。

その方の病床を訪問し、私がどうしてもお聴きしたかったことは、50年を経て教会に戻られたときに、教会にはまだ信頼に足るものが残っていましたか?という問いでした。

その方はしばし思案し、それは教会が記念しているという働きです、とおっしゃいました。

教会が行っている記念には信頼できる、とおっしゃったのです。

私としては思いがけないお答えに、その方の教会への洞察と信仰の深みが伝わり、感動しました。

その方の病は重篤であり、ご自身の死期をも感じつつの言葉であったのでしょう。

次に、「平和を語る」ということについて考えます。

「平和を語る」と申しましても、私が平和について語るわけではなく、それは戦争体験を「聴くこと」であり、聴いたことを「語り継ぐこと」でありましょう。

戦後81年を経て、それぞれの年齢から81年を差し引くことで戦時における、その方の年齢が想い起こされます。

かつては、戦地で命からがら日本へ帰還できた人々の実体験を直接お聴きすることができたものでした。

私たちの年齢によっては、街角に傷痍軍人の方のお姿もお見かけしたものでした。

しかし戦後81年を経て、現在私たちが聴くことのできる戦争体験の多くは、戦争当時、語り部の方々が少年少女であった時の体験です。

すなわち、子どもたちの体験した戦争そのものを聴くのです。

 戦争で直接負傷された方の体験があり、空襲で間接的に苦しんだ方の体験があり、大人のみならず子どもたちの体験があるのです。

 

 戦時下での体験は様々です。

 先日、母がおもむろに戦時中のことを語りました。

 母の父親は戦死しています。

 幸いに母家族は山あいで暮らしておりましたので、戦時中とは言え、食べる物はあって、ひもじい思いはしたことはなかったと申しておりました。

 また、大阪にお住まいだった、大正生まれで海軍航空隊に所属しておられた方は、決して戦時中の話をしてくださいませんでした。

 なぜ語られないのですか?と問いますと、航空隊は石川県の山間に基地があり、空襲があるわけでもなく、食料にも恵まれていたから、大阪市内にいた市民や家族たちの方が余程戦禍で苦労していたのを知っているから、戦時中のことは話せんのや、ともおっしゃっていました。

 それぞれの戦争体験がおありです。

 戦後生まれが多数を占める現在、今も聴き得る子どもたちの戦争体験を忘るることなく聴き入り、二度とあってはならぬ戦争、起こしてはならぬ戦争について、聴いた者は沈黙してはなるまい。

 

マタイによる福音書5章9節に、「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神を見る」とあります。

平和を実現するとは、神の前に悔い改めること、直ちに戦争をやめること、武器を造らないことです。

また、平和について聴き、記念し、沈黙しないことです。

記録し、語り継ぎ、記念として託すことです。

 

今や国民の9割以上が直接に戦争を体験していない世代となりました。

 それでも、わたしたちは平和を実現せよとキリストによって送り出されて者です。

 本日の御言葉、ヨハネ15章16節、

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

と、キリストによって呼び出された者として、聴き取った戦争という人間を苦しめる体験を我がことのように感じ、二度と戦争は起こさせてはならないと決意を新たにするために、教会は絶えることなく、生きることが叶わなかった命の慰霊と記念を行い、次世代へと託すことによるほかありません。

 キリストによる神との平和が、皆さんと共にありますように。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」