「神と生きる命」-池袋教会『会報』より

「神と生きる命」(2019年4月7日)

 「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。」(創世記2.7)神が人に命を与えられたということを記している個所です。私たち一人一人に神は命を与えてくださいました。そのことを覚えるときに忘れてはならないことがあります。それは私たちに与えられた命は私たちのものであると同時に、今もなお神の御手のうちにあるということです。命は一度受け取ったら、それで完了というわけではありません。私たちは日々の生活の、そのほとんどで自分の命が神の御手にあることを忘れてしまっているかもしれません。けれども与えられた命がなお神の御手のうちにあるからこそ、命は保たれているのです。私たちに与えられた命を神が守り、養ってくださっているということです。命が保たれ続けなければ、つまり生き続けなければ、命は命でなくなってしまいます。そのように考えますと、神は昨日も、今日も私に命を与えてくださっているということに気づかされるのではないでしょうか。私たちは、命という「もの」を神に頂いたというよりも、命という「生きる時」を神から頂いていると考えた方がよいのかも知れません。それは、神と生きる時であり、隣人と生きる時です。神に愛される時であり、その愛をもって神に応える時、その愛を隣人と分け合って生きる時です。
 私たちは、生と死を、生きることと死ぬことを対になっているように考えているかもしれません。けれども、よく考えてみますと生と死には大きな違いがあります。時間の流れの中で考えるならば、生は線と言えるでしょう。けれども死は線ではなく、その線の終わりにある点です。私たちは生を過ごすこと、つまり生きることはできるわけですが、死は点ですから過ごすことはできません。死は、だれもがただ一回だけ経験することです。私たちは、生きることについては自分でどうするかを考えることができます。自分の思い通りにならないこともしばしばですが、それでも生をより良いものにしていこうと努力することはできます。けれども、死を過ごすことはできないのですから、それをより良いものにすることはできないのです。できることは、死に向かう生をより良いものすることです。ですから私たちが進んでいく先には死があるとしても、私たちが向かうのは死でなく、死の手前にある生であるということを思います。それは死を見ないようにするとか、死を忌み嫌うということではありません。死と向かい合うからこそ、死の手前にある命に感謝し、命を喜び、精一杯生きようと考えることができるのではないでしょうか。
 今年の3月に池袋教会の二人の方が神に召されました。お二人とも教会で葬儀を行うことができました。そして、教会からお二人を神の御許にお送りする中で、与えられた命がなお神の御手のうちにあるということが、いかに大きな恵みであるかということを改めて感じました。葬儀に先立ってご遺体を棺にお納めする納棺式が行われます。ルーテル教会の式文には、納棺に際してのこのような祈りの言葉が記されています。「私たちのために場所を備えると約束されたみことばのとおり、み手のうちに迎え、この世の別れが永遠の別れでないことを覚えさせ、み許において再び顔と顔を合わせる日を望ませてください。」お二人の納棺の際に、式文に従ってこのように祈りながら、この言葉から私自身も慰めと希望を与えられました。
 死を前にしてもそこに主がいてくださるとき、私たちの生という線の終わりにある点は、死を超えて与えられる神と共にある命の始まりの点でもあるのです。命は神の御手のうちにあり続けるのです。私たちは自分の力で死は乗り越えることはできません。ですから自分一人だけ死を前にするなら怖れしかないように思います。しかし、私たちの命は死を超えて神の御手のうちにあるのです。「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」(詩編23.4)私たちが、死を前にしても、そこに主が共にいてくださいます。死に向かう線も、死という点も、そこから始まる新しい生も、主が共に歩んでくださるのです。