「主は生きておられる」-4月21日(復活祭)説教

ルカによる福音書24章1~12節

 先日の木曜日(4月18日)、教会から牧師館に戻るときに夜空にきれいな月を見ることができました。金曜日が満月だったようですから一日前のほぼ真ん丸の月でした。その月を見て、ハッとしました。イースターを迎えるから満月だということに気づいたからです。ご存知の方もおられると思いますが、イースターは毎年春分の日の後にくる満月の次の日曜日と決められています。今年は春分の日の後の満月が一昨日の金曜日だったということです。とても遅いイースターとなりました。そういったことを知識としては知っていたわけですが、月を見て、その月から「ああイースターが来るんだ」と思ったことはなかったのです。そして昔の人たちも月を見ながらイースターが近づいているということを感じたのだろうかと思いました。少々複雑なイースターの決め方を知っていたかは分かりません。ただ例えば聖書の時代の人々は月の満ち欠け、日の長さや傾き、肌で感じる気温や湿度といったものが、今の私たちよりももっと密接に生活とつながっていたに間違いありません。また私たちが知っているような太陽や月、気象に関する自然科学の知識とは違った、それらに対する考え方を持っていたわけですからもっと具体的に直接的に神が自然と関わっておられ、つまり神が自然を司っておられ、そのような理解の中で自然の営みに直接、神の働きを感じるということが私たち以上にあったのだと思います。雷や嵐の中で、恐れをもって神を感じるというようなこともあったと思うのです。一人の人が誕生し、また死んでいくことにも現代の私たち以上に神の働きを感じたと考えてもよいかもしれません。けれども復活ということについてはどうでしょうか。聖書を読んでいますと今の私たちと聖書の時代の人々では、復活についての感じ方はそれほど違ってはいなかったのではないかということをいます。
 復活祭、イースターを迎えました。十字架に死なれたイエス様が三日目によみがえられたという出来事を覚える時です。聖書はルカの福音書に記される主の復活を伝える個所です。イエス様の復活を最初に知ったのは婦人たちでした。イエス様が処刑されてしまったという悲しみの中でせめてイエス様を手厚く葬りたいと、心を込めてお別れをしたいと思い準備しておいた香料を持ってイエス様のお墓に向かったのです。その時、墓を塞いであった石が転がされていてイエス様の遺体は見当たらなかったと聖書は記しています。婦人たちが見たのは空になった墓でした。そこに輝く衣を着た二人の人が登場します。天使たちです。彼らは婦人たちにイエス様は復活されたことを告げました。それで婦人たちは墓から帰って十一人の弟子たちと一緒にいた他の人々にそのことを告げたというのです。けれどもそのことを聞いた十一人の弟子たちは婦人たちから聞いた話をたわ言のように感じたということが記されています。「この話がまるで馬鹿げたことに思われて」という訳もあります。婦人たちの話は信じるに値しない話だったということです。
 旧約聖書の申命記(19.15)に人を罪に定めるための証言は「二人ないし三人の証人の証言」によらなければならないという規定があります。しかし聖書の時代、女性は社会の中で弱い立場に置かれており女性の証言は認められていなかったと言います。それで弟子たちは婦人たちの証言をたわ言のように思ったのだと考える人もいます。けれどもそれが婦人の証言だったから、たわ言のように思われたということでしょうか。そうではないと思います。男性、女性に限らず聖書はイエス様の復活を信じることのできなかった人々の姿を記しています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つのどの福音書にも、復活を信じることのできなかった弟子たちの姿が記されているのです。そして、そのように記されていることは意味のあることだと思います。福音書が、復活を素直に信じた弟子たちの姿を記していたらどうでしょうか。例えば今日の個所の弟子たちが婦人たちの話を聞いてすぐに「主は復活された」と喜んでいたら、弟子たちの置かれていた状況と今の私たちの状況を比べて、そこにいた弟子たちは信じることができたかもしれないけれども今の私たちには無理だと考えるかもしれません。あるいは弟子として選ばれた者だからとかイエス様から直接訓練を受けた者だからとか、そこに信じることのできる人と信じることのできない人という線を引いてしまうかもしれません。けれども弟子たちも信じることができなかったのです。私たちの周りにいる誰かが亡くなったとして、その人の葬儀にも出たとして、別の誰かが「あの人は復活した」と、今も生きている」と言ったとしたら素直に信ることができるでしょうか。「それは良かった。うれしい」と喜べるでしょうか。まさにその人の話をたわ言のように思うのではないでしょうか。私たちは復活を信じることができなかった弟子たちの姿に私たち自身の姿を重ねることができるのです。弟子たちの感じ方と私たちの感じ方は同じであるように思うのです。ただ、だからそれで安心できるわけでもありません。イエス様は私たちにご自身の復活を信じる信仰を求めておられるからです。どうしたらよいでしょうか。
 聖書は天使からイエス様が復活されたことを聞いた婦人たちが、そのことを弟子たちに証言したと伝えています。この婦人たちが証言したということがイエス様の復活が事実であることを示していると考える人もいます。イエス様が復活された時、弟子たちに限らず多くの人々がイエス様の復活を信じることができませんでした。そしてイエス様に敵対していた者たちの中にはそれを弟子たちの作り話だと考える者もいました。先ほど、申しましたように当時女性の証言は認められないという考え方がありましたから、もしイエス様の復活が作り話だとしたら最初にイエス様の復活を証言する人として登場するのが当時証言者として認められていなかった女性であるわけがないというのです。だから、婦人たちが証言しているということこそが復活が事実だと示していることになるというのです。なるほどと思います。けれどもまた、復活を信じるということはそのようなこととも違うという気もするのです。誰かが復活を証明することができたとしても、別の人は反対に復活がなかったことを証明しようとするでしょう。そして説得力のある方に軍配が上がるのだとしたら、それは復活を信じることとは別のことになるのではないでしょうか。
 今日の個所で天使は婦人たちに言っています。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」イエス様が復活を予告しておられたのです。「そこで婦人たちはイエスの言葉を思い出した」と聖書は続けるのです。復活を信じる根拠は、復活の証明することよって得られるものではないと思います。聖書はイエス様の言葉をこのようにはっきりと告げています。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ9.21)
 イエス様御自身が復活を予告されたから、イエス様がそのようにおっしゃったから信じる、これが復活を信じる信仰です。復活を信じるということはイエス様を信じるということなのです。イエス様が十字架に死なれ、希望を失っていた婦人たちは、天使たちによってイエス様の言葉を思い起こさせられました。ここから復活への信仰が始まります。イエス様が弟子たちにご自身を示されるのはもう少し先のことです。弟子たちはまず復活について告げたイエス様の言葉を思い起こさせられるのです。イースターの朝、それは復活への信仰、イエス様の言葉への信仰を呼び覚まされる朝です。今日も復活の主は生きておられます。イースターを迎えた今日、共にいてくださる主と新しい歩みを始めていきたいと思います。(2019年4月21日)