「ひとつの命」-5月12日説教

ヨハネによる福音書10章22~30節

 神は、聖書をとおして私たちに救いを示してくださっています。では私たちにとりまして「救い」とはなんでしょうか。どのようなことが救いの出来事となるのでしょうか。自分の罪が赦されることが救いだという人もいるでしょう。また、神に愛されていること、神が私という存在を受け入れてくださっていることを救いだという人もいるでしょう。どんなときにも、たとえ死を迎える時であっても、神が共にいてくださることを救いと考える人もいるでしょう。救いという出来事は、人それぞれ、さまざまな言い方ができると思います。けれども今申し上げたようなことは、ひとつのことだと言ってもよいと思うのです。神から離れて罪に生きていた私たちが、神の愛ゆえに無条件で神から受け入れられ赦されて神と共にいることができるようになること、死を超えても神と共にいることができるようになるということ、これらは神の一つの救いの出来事だからです。
 救いということについてもう少し考えたいと思います。私にとっての救いとは、例えばこの病や人間関係などによるさまざまな苦しみから解放されることだという人がいたらどうでしょうか。あるいは私にとっての救いとは家族が幸せになることだと考えている人がいたらどうでしょうか。これらのこともその人にとっては救いだと言えるでしょう。ただそういったことが、聖書をとおして示される救いであるとは限りません。聖書が示す救いの出来事には必ず神がおられます。問題が解決して苦しみからは解放されても、神がおられなければ本当の解決にはならないというのが、聖書が示す救いの出来事です。もちろん苦しみから解放されることも、家族の幸せを願うことも間違ったことだとは思いません。ただ聖書をとおして示される救いの出来事には、必ず神がおられるということを忘れてはならないと思うのです。
 今日の聖書は、エルサレムの神殿におられたイエス様の所に、ユダヤ人たちの指導者たちがやって来て、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか」と言ってイエス様を取り囲んだというのです。イエス様にはっきりとした答えを求めて迫った、そんな状況を考えていいでしょう。今日の個所のすぐ前に記されていますことがこの質問の背景にあるようです。イエス様が「わたしは良い羊飼いである」と人々に話された後のことです。このように記されています。「この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。『彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。』ほかの者たちは言った。『悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。』」(ヨハネ10.19-21)イエス様についてユダヤの人々の考え方は、二分していたということです。ある人々は「悪霊に取りつかれて、気が変になっている」と考え、またある人々は、そんなはずはないと、そうではなくもしかしたらメシアかもしれないと考えていたということです。そのような状況の中でイエス様に質問をしたのです。ただ今日の個所で質問をしている人々、この人々民の指導者たちと言えるのですが、彼らはイエス様に対して既にはっきりとした敵意を抱いていました。少し前の個所には指導者たちがイエス様に石を投げつけようとした(8.59)という個所もあります。ですから彼らはイエス様の答えの中に、イエス様を逮捕する口実を見つけたかったのだと思います。そのような状況でなされた彼らの質問に、イエス様は「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」と答えられたのです。ご自分をメシアと認められたということでしょうか。
 この時は神殿奉献記念祭でした。それはイエス様の時代からおよそ200年前、シリアの王によって占拠されていた神殿をユダヤ人たちが武力によって奪い返したことを記念する祭です。かつて武力によってエルサレムの神殿を奪還したことを祝う祭です。そしてこの時も、ユダヤの国はローマ帝国の支配下に置かれていたのです。この時代は神殿を奪われていたわけではありませんが、人々は抑圧された生活を送っていました。
 その中で民はメシアを、自分たちに救いをもたらしてくださる方を待ち望んでいました。当然政治的な解放者を、武力によって自分たちを解放してくれるメシアを待っていたのです。人々が求めていた救いとイエス様が示そうとしておられた救いは違っていたのです。だからイエス様は、ご自分がメシアであるとはっきりと言うことができなかったのだと思います。それではイエス様はどのようなメシアだったのでしょうか。だれに対してのメシアかということを考えなければならないと思います。民の指導者たちにイエス様は「あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである」と言われました。イエス様はメシアであったけれども、彼らにとってはイエス様はメシアではなかったということになりますが、どのように考えればよいでしょう。ある人はイエス様の羊でその人にとってイエス様はメシアであるけれども、またある人はイエス様の羊でなくその人にとってはイエス様はメシアでないということでしょうか。どのように考えればよいでしょう。
 イエス様は「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」とも言われています。イエス様の羊は訓練をしてイエス様の声を聞き分けることができるようになってイエス様の羊となったわけではありません。努力によってその声を聞き分けることができるようになったわけでも自分で羊飼いであるイエス様を見つけ出してイエス様の羊になったわけでもありません。イエス様が私たちをイエス様の羊としてくださったのです。
 それではどうしてイエス様は民の指導者たちに「わたしの羊ではない」と言われたのでしょう。今日の個所にイエス様の羊とそうでない者が登場するのはどうしてなのでしょうか。そのことをいくら考えても、私たちにはその答えは与えられていないと考えるべきでしょう。だれがイエス様の羊でだれがそうでないのか、つまりだれが救われていてだれが救われないのかということの答えは私たちには与えられていません。ただイエス様はすべての人を招いておられるのです。すべての人の羊飼いになろうとしておられるのです。そのように私たちは信じてよいのです。
 使徒言行録(2.36-37)にこのような個所があります。復活されたイエス様が天に昇られ、弟子たちに聖霊が降った後のことです。聖霊を受けたペトロが人々に説教をし、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と言いました。これを聞いた人々は心を打たれ、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と言ったのですが、ペトロは、悔い改めて洗礼を受けるように教え、その日の内に3000人もの人々が洗礼を受けたというのです。イエス様を殺してしまった人々が、救いに与ったことを伝えているのです。この人々がとして、イエス様を殺すことを中心になって企てた民の指導者人たちだったのか、イエス様の殺すことに賛成した群衆だったのかは分かりませんが、いずれにしても、神の前には同じ罪を犯したと考えるべきでしょう。そして、この出来事は、イエス様の羊でなかった人々が、イエス様の羊となったという出来事であるのです。
 人はだれでも神の一方的な恵みによって、一方的な招きによって、イエス様の羊とされます。最初からイエス様の羊であった人はだれ一人いません。だれもがイエス様と出会い、招かれてイエス様の羊となったのです。神から遠く離れたところで罪に生きていた私たちが、イエス様の十字架によって、その罪を赦され、主と共にいることができるようになったのです。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」とイエス様は言われます。イエス様の羊となった者をイエス様は守るという約束であり、ご自分の羊に永遠の命を与えるという約束です。永遠であるイエス様の愛に包まれて生きる命を、永遠である神の愛の御手の中で生きる命を与えてくださるのです。イエス様の命を生きる者とされると言ってもよいでしょう。そして、そのイエス様が与えてくださる約束に生きることが、イエス様の羊となることです。イエス様を私のメシアとすることなのです。喜びの内にイエス様の羊として、素晴らし約束を伝える歩みを始めていきたいと思います。(2019年5月12日)