「安心して行こう」ー6月30日説教

ルカによる福音書7章36~50節
 教会の暦は聖霊降臨後の季節に入りました。この期間、礼拝の中心となる福音書はイエス様の救い主としての活動を記した個所、その業と教えが記された個所が読まれることになっています。聖霊降臨後の季節の聖壇の布の色は緑色です。緑は植物の緑から来ていて希望と成長を表していると言われます。そのみ言葉によって私たちが希望のうちに成長していくこと時と言ってよいでしょう。けれども毎年一年の半分ほどをこの緑色の時、希望と成長の時を過ごしているわけですが、「毎年少しずつ成長しています」とはなかなか言えないそんなことを感じる方もおられるかもしれません。私たちの信仰の歩みにおいて成長していくというのは、どういうことでしょう。
 今日の福音書は、イエス様がファリサイ派のシモンという人に食事に招かれた時のことが記された個所です。このシモンという人がどのような思いでイエス様を食事に招いたのか、聖書は記していませんが次のようなことだったのではないかと思います。この頃イエス様について「大預言者が我々の間に現れた」(ルカ7.16)という評判が人々の間にありました。イエス様が夫に先立たれた女性の一人息子を生き返らされたという出来事があり、そのことで「大預言者が現れた」という評判がユダヤの国中とその周辺の地域にも広まったというのです。また今日の日課のすぐ前の個所を読みますと、イエス様のことを「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(ルカ7.34)と言っていた人々がいたということも分かります。そんな状況の中でファリサイ派のシモンは、今評判のイエスという人に実際に会ってみようと、そしてイエスという人が本物の預言者なのかそれとも偽物なのかを見極めようと思ったのでしょう。
 その食事の席にひとりの女の人が入って来ました。当時の社会ではお客が招かれて食事がなされるような時に、そこに招かれていなくてもその家に入ってその人の話を聞くことは許されたようです。聖書はその家に入ってきた女の人のことを「この町に一人の罪深い女がいた」と紹介しています。町の多くの人々が彼女のことを知っていたのでしょう。律法に従って生活していない人であり、ユダヤ人ではあるけれどももはや救いの外側にいる人だと人々からみなされていたということです。彼女はイエス様の足もとに近寄り、涙でイエス様の足をぬらし髪の毛で拭い接吻をして香油を塗ったというのです。マタイ、マルコ、またヨハネの他の三つの福音書にもイエス様に香油を注いだ女性が登場します。しかし他の三つの福音書はイエス様が十字架にかかられる直前のこととして記していまして、時期も場所もまた状況もこのルカの福音書の出来事と違っています。ですから三つの福音書が記している出来事と今日の個所の出来事は別のことだと考えるべきでしょう。今日の個所の女性は、古くからマグダラのマリアだと伝えられてきたようです。ただ聖書にはそのことを示すようなことは何も記されていませんから、マグダラのマリアかもしれないと違うかもしれないと考えるべきでしょう。聖書が記していることは、彼女が「罪深い女」だったということです。彼女がイエス様の足を涙でぬらし髪の毛で拭っているのを見てファリサイ派のシモンは「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思ったとあります。イエスという人が本物の預言者なら自分の足もとにいる人が「罪深い女」だと見抜けるはずで、もし見抜けるならそんな人が自分に触れるのを許しておくはずがないと考えたということでしょう。イエス様が人を見抜く力を持っておられました。しかしイエス様が見ておられたのはそのように考えていたシモンの心でした。
 イエス様はシモンに語りかけられます。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」と。1デナリオンは一日の賃金です。仕事をしない安息日を除いて計算しますと50デナリオンはふた月ほど働いて得られる賃金、500デナリオンは20か月、一年半以上働いて得られる賃金ということになります。多く赦された者が多く愛するということを教えているたとえです。このたとえをこの時の状況に当てはめるなら500デナリオンの借金をしていた人がイエス様の足を涙でぬらした女の人、50デナリオンの借金をしていた人がファリサイ派のシモンということになるのでしょうか。そうだとしますとシモンにも少ない方ではあっても負債があったと、つまり彼も赦されなければならない者であったということになります。しかしシモン自身は自分に赦されなければならない罪があるとは考えていなかったのではないかと思います。ファリサイという言葉は「分離される者」という意味です。なぜ「分離される者」なのか、自分たちを人々から分離していたからだと言われます。彼らは律法の教師でした。律法を生活に適応させるためにはどうしたらよいかを民衆に教えていた指導者です。教えるだけでなく実際に律法を守って生活していました。律法に従って生きようとすることをやめてしまった徴税人や罪人と呼ばれていた人々と自分たちを分離していただけでなく、律法に従って生活しようと努力していた一般の人々からも自分たちを分離していたということのようです。シモンは、自分は正しく生きていると考えていたことでしょう。しかし彼も赦されなければならない一人でした。形の上では律法を守って生活していても心の中には罪がありました。彼はイエス様の足を涙でぬらした女の人を蔑みました。そこに罪があります。そしてその罪をイエス様は見ておられたのです。ですから彼もまたイエス様の足を涙でぬらした女の人と同じように500デナリオンの借金をしていた人だと考えるべきです。イエス様はたとえを通してそのことを彼に教えようとされたと思います。シモンが自分の罪に気づき、赦しを受け取ることを願っておられたのだと思うのです。
 『ルターと宗教改革事典』(教文館1995)に、ルーテル教会の「聖化」についての考え方が記されています。聖化は、信仰者が少しずつ聖なる者とされていくことを意味する言葉として理解されています。ルーテル教会では、あまり聞かれない言葉ですが、聖化という考え方を否定しているというわけではありません。そこにはこのようにあります。「信仰による義認は、それによって主のものとして聖化されることを含んでいる。しかし人は義となり聖となればなるほど、自分の罪についても敏感になるはずであるから、聖化は自らの基準や感覚において聖となったと感じることではない。むしろつねに、より深く神の赦しを求めることになる。」罪を赦されて神の前の罪のない者とされるということは聖となっていくことだけれども、聖とされればされるほど自分の罪に敏感になってそれまでよりももっと神の赦しを求めることになるというのです。それまで見えていなかった自分の罪がはっきりと見えるようになってくるということです。人と比べて罪が多い少ないということと神の前に罪が多い少ないということとは別のことです。心の中を見ておられる神は、私たちの心に確かに罪があることを知っておられるのです。だれもが500デナリオンの、それ以上の負債があると言わなければならないのです。けれども罪の大きさが分かるときに赦しの大きさ、神の愛の大きさが分かるのです。私たちが成長するということは自分の罪がはっきりと見えてくることであり、赦しの大きさが分かることだと思います。イエス様は「安心して行きなさい」と言われます。赦しを受け取った所から私たちの信仰の歩みが始まるのです。『ルターと宗教改革事典』には聖化についてこのように続けています。「聖となることは、この世から分離して神に近づくという方向においてではなく、人々のために働くように聖別されることに見られなければならない。」赦された者としてイエス様と共に人々の所に遣わされたいと思います。イエス様にいただいた安心を携えていきたいと思うのです。(2019年6月30日)