「主の言葉から始まる」-7月14日説教

マタイによる福音書28章16~20節
 「1907年7月、東京府千駄ヶ谷町816番地にて。二年間下諏訪にいて今月中頃、下諏訪から東京に来た。それはコスケンニエミ夫妻、副島秀、そして私の4人である。コスケンニエミ夫妻は日本語の勉強をはじめ、私と秀は伝道を始めたいと考えている」、112年前のウーシタロ宣教師の日記に記されている、この教会の始まりを記す文章です。私たちの教会はフィンランドから来られた女性宣教師のウーシタロ師とコスケンニエミ宣教師夫妻、そして彼らを助け共に伝道した副島秀子さんによって始められました。千駄ヶ谷町816番地、千駄ヶ谷の駅よりも代々木駅に近く代々木駅から山手線の外側に5分ほど歩いた場所で、そこに建てられていた民家を借りて、彼らの伝道は始まったのです。
 この始まりを覚えます時にその7年ほど前の1900年にフィンランドから来られた最初の宣教師たちのことも覚える必要があると思います。当時のフィンランドの教会には、十字架による救いを、福音を人々に伝えていくことが自分たちの使命だと考える人々によって宣教団体が作られていました。フィンランド福音ルーテル協会、LEAFと呼ばれる宣教団体です。そのLEAFから派遣されたウェルローズ宣教師家族とクルビネン女性宣教師を乗せた船が1900年12月に長崎港に着いたところからLEAFの日本宣教は始まります。その時ウェルローズ師は25歳、クルビネン師は17歳であったと言います。ウェルローズ夫妻にはまだ幼い3人のお子さんがいたのですが、その少し後、彼らが長崎で聖公会の宣教師たちに助けられながら日本語の学んでいる時にお子さんの一人が亡くなるという悲しい出来事が起こります。奥様も重い病にかかりウェルローズ師も子どもたちも病がちになり一家は日本での宣教を断念して帰国を決意せざるを得なくなりました。そのような中でクルビネン師は日本に残り同じ九州の佐賀で伝道を始めていたアメリカのルーテル教会の宣教師たちの働きに合流します。
 17歳で日本に来たクルビネン師は、やはり海外宣教をされていた宣教師のお嬢さんで数か国語を話し音楽の才能も優れていたと言います。クルビネン師は佐賀教会でオルガニストや讃美歌の指導、英語クラスを担当したようです。そのような彼女の佐賀での生活が2年ほど過ぎた1903年フィンランドからウーシタロ宣教師が、単身でひと月かけて大陸を鉄道で横断して佐賀に到着しました。学校の教師だったウーシタロ師はこの時25歳で、1900年の最初の宣教師派遣の時にも彼女は候補者となっていたようです。佐賀教会の伝道に合流したウーシタロ師も日本語を学びながら伝道に協力されました。ウーシタロ師が記された当時の日記にこのような記述があります。「1904年2月、日本に来て3か月を経たが、心配されていた日本とロシアの戦争が始まった。私たちは周囲の人々からロシア人と言われ、意外であった。アメリカの宣教師たちは私たちを守ってくださった。戦争が始まり、日本人がどんなに自分たちの祖国を愛しているかがよく分かった。」当時のフィンランドはロシアの支配下にありウーシタロ師たちはロシアのパスポートで日本に来られていたようです。機関紙『るうてる』の今月号に熊本教会の杉本先生が、熊本教会の会堂が戦火で焼失した時に捕虜となっていたロシア兵から帰国する際に送られた記念の時計も消失してしまったと記しておられ、そのロシア兵とはフィンランド人のルーテル教会員だったとありました。熊本教会に時計が送られたのはウーシタロ師たちが佐賀におられたのと同じ頃のことと思われます。当時の日本ではフィンランドとロシアの区別があまりなくロシアとの戦争が始まるとフィンランド人は敵国の人ということになったようです。そのような影響の中で警察官がウーシタロ師たちの行動を調べたり、スパイだという噂が流れたりしたようです。そしてウーシタロ師とクルビネン師はこれ以上佐賀教会とアメリカの宣教師に迷惑をかけることはできないと考えて、九州を離れることを決意するのです。
 1905年5月、二人は九州を発ち東京に向かいます。原宿に家を借り二人は新しい宣教の場所について考え始めます。その頃佐賀から東京の大学に来ていたルーテル教会の会員で後に私たちの教会の牧師にもなられた溝口青年(溝口彈一師)と出会い、長野県の気候がフィンランド人には適しているのではという話を聞き、長野の諏訪地方が候補地となったようです。実際に湖や白樺のある諏訪湖の周辺は彼女たちの心休まる場所となったようです。けれども諏訪で彼女たちに家を貸す人はなかなか見つからず異国の人を受け入れようとする雰囲気もなかったようで、ましてまだロシアとの戦争が続く中でしたから長野での宣教の困難さも容易に予想されたとも思われます。しかし彼女たちは東京で二か月を過ごした後下諏訪に向かい宣教を開始するのです。その後まもなくフィンランドから新たに宣教師が来られ、溝口青年、後の溝口牧師と共に下諏訪に赴き下諏訪での伝道に加わりました。
 今月の1~3日まで私は教区の会議のために甲信地区を訪れたのですが、その会議の会場となったのがその最初の教会である諏訪教会でした。またその間に飯田教会と今は閉鎖されてしまった駒ケ根教会の会堂を訪れる機会を与えられました。三つともLEAFフィンランド・ミッションによって伝道が始められた私たちと同じルーツを持つ教会です。ほんの少し訪れただけでしたが、特に旧駒ケ根教会の会堂をお訪ねする中では伝道の困難さとしかしそこに確かにあった信仰の歩みを感じました。
 甲信地区にあるそれらの教会は、その頃今から100年以上前に伝道が開始された教会です。それらの教会はウーシタロ師たちが諏訪地区で伝道は初めて2年後の1907年に更に二組の宣教師夫妻と二人の女性宣教師がフィンランドから来られ宣教が拡大されていった中で始められた教会です。そしてその新たに来られた宣教師たちの中にいたコスケンニエミ夫妻とウーシタロ師は、東京千駄ヶ谷で伝道を始めることになり、またウーシタロ師が佐賀教会の時から親しくしていた副島秀子さんを呼び寄せられ、この教会の歩みが始まったのです。この頃アメリカの宣教師によって始められていたルーテル教会は6つありましたがいずれも九州の教会で、日本で7つ目のルーテル教会として下諏訪教会、8つ目が千駄ヶ谷の教会で東京では最初のルーテル教会ということになります。1907年7月に千駄ヶ谷の借家で伝道が始められたわけですが、その1907年のカレンダーを調べてみますと今年と同じで7月は7日14日21日そして28日が日曜日でした。宣教が始められた時そこには牧師であるコスケンニエミ師を含む4人の信仰者の群れがあったわけですから日曜日には当然礼拝をしたはずです。だとしますと7月中頃に借家に入り14日か21日に最初の主日礼拝を行ったと考えてよいでしょう。そしてその千駄ヶ谷の最初の借家で5年ほど伝道を続け、1912年には代々木駅と千駄ヶ谷駅の間あたりにあったそれよりも大きな借家に移っています。そして、1916年には巣鴨に移り、更にその13年後の1929年に巣鴨で別の借家に移っています。
 その頃、教会には大きな願いがあったようです。借家でなく自分たちの会堂の与えられることです。ウーシタロ師の日記にそのことが記されています。巣鴨に移る前千駄ヶ谷でのことです。「1914年6月、ミッションを経由して、ベルグレン氏から東京の教会堂建築のため50マルクが送られた。これで会堂建築基金として100円が積み立てられたが、自分たちの教会堂を建てるのにどのくらいかかることか。」この時既に始められていた建築積立のことはその後の日記にも時々出てきます。教会に来られた方から会堂建築のために献金があったこと、バザーが行われてそこから会堂建築のために献げられたことなどです。そしてこの願いが神に聞かれるのは1931年6月です。今私たちが礼拝していますこの場所に最初の会堂が建築されたのです。ウーシタロ師の日記には「東京福音ルーテル教会献堂式、20年間も会員一同で祈り、献げ、積み立てたもので池袋の敷地内に会堂を建てることができた。」献堂のための祈りと積立が始められたというその「20年前」は、千駄ヶ谷の最初の借家で伝道をしていた時で教会にはごく初期から会堂建築の祈りがあったということになります。この池袋の土地はその8年ほど前の1923年に購入されています。それは日本人の牧師を養成する神学塾を建てるためです。神学塾はその翌年に開校し、二年後の1926年に9名の方が卒業し伝道師として、主に諏訪地区の諸教会に遣わされています。そしてその後は宣教師館として使われていたようですが、その神学塾のあった敷地に会堂が建てられたのです。
 ウーシタロ師は、それから10年後の1941年に33年間の日本での宣教活動を終えて帰国されます。日記では、その頃の他の宣教師の辞任と帰国について「引き上げなければならなくなった」と表現されていますから、戦争に突入していった当時の状況による影響が大きかったのだと思われます。また帰国された時ウーシタロ師は62歳です。千駄ヶ谷時代には軽い結核で3か月ほど入院されていますし、池袋に移ってからも脳出血で3か月ほど入院しておられます。年齢と健康面での問題があったのかもしれません。ウーシタロ師は帰国されてから3年後の1945年フィンランドのヘルシンキにて66歳で召されました。ウーシタロ師が日本に来て7年が経った後一年ほどの最初の帰国をし、再び日本に戻られた時のことを記した日記には「横浜に到着、千駄ヶ谷教会の7名の姉妹たちとサオライネン、コスケンニエミの両氏が迎えに来てくださる。日本の人々に会うと私は、日本を愛し、死ぬまで日本で働きたいと深く感じる」とあります。25歳で日本に来られ62歳で帰国されたのですから、その言葉のとおりご生涯を日本伝道のために献げられたと言ってよいでしょう。もちろん他の多くの方々の祈りと献身によって私たちの教会が支えられてきたことも忘れてはなりません。また、私たちはウーシタロ師の功績ではなくウーシタロ師を通して働かれた神を見上げなければならないとも思います。ですがこの教会の初期において神がウーシタロ師を通して多くの働きをなされたことは確かなことです。そしてまだロシアの支配下にあり自分たちも大変な状況であったに違いないのに遠い日本のために祈り、献げ、ウーシタロ師を始め多くの宣教師を送ってくださったフィンランドの教会の方々の信仰を覚えたいと思います。
 主は言われます。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」、大宣教命令と呼ばれるイエス様の言葉です。教会が伝道をするのは主がそのように命じられたからです。しかしただ命じられているだけではありません。主に命じられて遣わされていく者は既にあふれる恵みを、主の救いを受け取っているのです。信仰の先輩たちの足跡を覚え、私たちも同じ恵みに与っていることに感謝し、主の言葉によって私たちも伝道の業に押し出されたいと思うのです。(2019年7月14日)