「み手にある命」-8月11日説教
ルカによる福音書12章13~21節
創世記(2.7)に、神が人を造られたとき「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。聖書は、神が命の息を人に吹き入れて人に命が与えられたということを最初に記しています。私たちには命を作り出すことはできません。そのことをよく知っているはずなのに、私たちはときどき自分の命は自分だけのものであり、命は自分の思いどおりになると思っていることがあるかもしれません。しかし、そうではないのです。そして、そうではないからこそ私たちは安心できると思うのです。そのことを今日の聖書は私たちに教えているように思います。
今日の福音書は、群衆の一人がイエス様に願った言葉で始まっています。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」とその人は言いました。律法には、親の財産を子どもが相続する場合、長男は優遇されるものの長男だけではなく弟たちも相続できることが記されています。イエス様に願ったこの人には自分が受け取ることのできる親の遺産があったということです。しかし、この人の兄はその遺産を独り占めしようとしていたのでしょう。それでイエス様にお願いしたのだと思われます。
ユダヤの人々は信仰と生活が結びついていましたから、当然神が民に与えた律法には信仰の事柄だけでなく生活についてのさまざまな規定が含まれています。ですから律法の専門家である律法学者は、裁判や相続のことなどにも関わり、人々に教えていたようです。この人はそのような働きをイエス様に期待して「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と願ったのだと思います。しかしイエス様は「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と言って、その願いを退けられました。なぜでしょうか。当時の社会の中で律法学者たちが担っていた裁判官や調停人としての役割をイエス様が律法学者たちと同じように担うことを、単に拒まれたということだけではないようです。その理由はイエス様が話されたたとえ話の中にあると言えるでしょう。
ある金持ちの畑が豊作だったというのです。何年も食べたり飲んだりして楽しめるほどの豊作だったのですから、彼は大地主で何十年に一度というような豊作だったのでしょう。自分の持っていた倉には納めきれないほどだったので、新た大きな倉をいくつも建ててそこにすべてを納めようと考えたのです。このたとえに登場する神はこの金持ちに対して「愚かな者よ」と言っていますが、この金持ちのどこに問題があったのでしょう。将来のための蓄えをしようとしたことやめったにない豊作を喜び、ひと休みして飲んで食べて楽しもうとしたこの金持ちの思いは、私たちにも理解できるものではないでしょうか。思い描いたとおりにはなかなかいきませんが、それでも私たちは人生の計画を立てそのために蓄え、そして何年も遊んで暮らせるほどではないとしも、それなりに食べたり飲んだりして楽しむことがあるのではないでしょうか。もちろん、この金持ちの気持ちを理解できるからよい、私たちも似たようなことをしているから問題ないということにはなりません。しかし将来の蓄えをしたり、またひと休みして楽しんだりする在り方が間違っていて、それを改めなければならないようにも思えないのではないでしょうか。この金持ちが抱えていた問題は、もう少し深いところにあるように思います。
いろいろと思い巡らしているこの金持ちが自分に語りかけようとする部分があります。「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ」という個所です。この個所は新しく出された「聖書協会共同訳」聖書では「倉を壊し、もっと大きいのを建て、そこに穀物や蓄えを全部しまい込んで、自分の魂にこう言ってやるのだ」となっています。以前使っていた口語訳聖書でも「そして自分の魂に言おう」となっていました。ギリシア語の原文を直訳しましても「そして言おう、私の魂に」となります。「私の魂に」、この魂は、命と訳すこともできる言葉です。この金持ちは「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しもう」という独り言を言ったわけではなく、自分の魂に、自分の命に向かって「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と命じたのです。少し不自然な感じのする個所と考えてよいようです。この自分の魂に対する言葉は、自分に対して自分が神となっている言葉のように思いました。自分の命を支配する者となっているということです。しかしそこに本当の神が登場され、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われるというのです。
イエス様のたとえ話に神が神として登場されるのは、このたとえだけのようです。主人であったり父親であったりする登場人物が神であることを感じさせるというたとえはいくつもありますが、神が神として登場するのはこのたとえだけということです。ではなぜ、このたとえでは直接神が登場されるのでしょう。それは主人や父親にはできないことをこのたとえではされるからというのです。この者に対する「今夜、お前の命は取り上げられる」という宣言です。それは命を支配しておられる神だけができることです。私たちは、自分自身に対しても神になることはできません。自分自身で考え自分自身で行動しなければならないこと、自分で判断できることもたくさんありますが、自分の命を支配する者になることはできません。この金持ちは、自分の魂に対して「食べたり飲んだりして楽しめ」と命じました。それは彼が自分の魂を支配する者になろうとしたということだと思います。この金持ちは自分自身に対して神になろうとしたのだと思うのです。しかしそれは、結局はこの世の富に支配されていることなのだと思います。富に支配されているのに、その富によって自分は富を支配できると思い込んでしまう。また自分自身の命をも支配し、自分に対して神になれると思い込んでしまうということです。
「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と言った人の願いをイエス様が退けられたのは、彼が富に支配されそうになっていたからだと思います。彼の兄が間違っていて不当に遺産を独り占めしようとしていたとしても、もしイエス様が彼の願いを聞かれ彼の思いどおりにことが進んだとしたら、本当の解決にはならなかったということです。富にすっかり支配されそうになっていたこの人が富から解放されることをイエス様は望んでおられ、このようなたとえを話されたのだと思うのです。
私たちはどうでしょうか。私たちがこの世を生きるときに物質的な豊かさと無関係でいることは難しいように思います。豊かであることがそのまま悪であるとは思いませんし、蓄えをすることも間違ったこととは思えません。けれどもそのようにして生きることは、富の誘惑と常に隣り合わせで生きるのだということを忘れてはなりません。そしてイエス様は、この世の富を出会った人々と分け合って生きることの素晴らしさを教えておられます。その素晴らしさを素直に受け取り喜ぶことができないのなら、私も富に支配されてしまう危険の中にいる一人であることを認めなければなりません。自分は富の誘惑と隣り合わせで生きていることを自覚しなければならないのです。
旧約聖書に登場しますヨブは苦難の中で「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ1.21)と言いました。この地上での持ち物はすべて与えられたもので、神に召される時には持っていくことのできないものです。しかし、ひとつだけ持っていくことのできるものがあります。それは、神の愛です。神の愛は私たちから奪い去られることはないのです。もし「今夜、あなたの命は取り上げられる」という神の声を聞くことになっても、そのように言われる神は私たちの命を愛し、み手の中に保ってくださる神なのです。安心をして愛のみ手に包まれて信仰の歩みを続けていきたいと思うのです。(2019年8月11日)