「覚悟の中の平安」-9月8日説教

ルカによる福音書14章25~33節
 聖書に「ラビ」という言葉があります。「先生」と訳されている個所もあれば、そのまま「ラビ」となっている個所もあります。ラビとはユダヤ教の教師、律法学者のことです。イエス様のことをラビと呼んだ人々も聖書には登場しますが、イエス様と弟子たちの関係は、当時のラビとその弟子の関係とは違っていたようです。その違いはひとつではありませんが、最も大きな違いは、ラビに学ぶ弟子たちはラビになるために弟子としての期間を過ごし、その期間を終えればラビになれたようです。しかし、イエス様の弟子たちには卒業がありません。自分たちの師であるイエス様が十字架にかかられ亡くなられても、復活し天に昇られ彼らの目に見えなくなっても、彼らはイエス様の弟子であり続けたのです。今日の福音書は、イエス様が弟子であるということについて教えられた個所です。改めてイエス様の弟子であるということについて考えたいと思います。
 エルサレムへの旅を続けておられたイエス様は、ご自分の後について来た人々に対して「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と言われました。イエス様はご自分の弟子として生きることがどういうことかを人々に問うておられるのです。けれどもイエス様は、「あなたたちは私について来るが、私の弟子になることはできない」と言おうとされたわけではありません。復活されたイエス様が弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28.19-20)と言われたことを思い起こしたいと思います。洗礼を受けることはイエス様の弟子になることであり、弟子になることは洗礼を受けることです。イエス様と共に生きることを始めときに私たちはイエス様の働きを担う弟子としての歩みをも始めることになるのです。イエス様はすべての人をご自分の弟子として招かれています。ご自分について来る大勢に人々にイエス様が家族も自分の命さえも憎まないなら、また自分の十字架を背負って従う者でなければ、そして自分の持ち物を一切捨てないならば私の弟子ではありえないと言われたのは、ご自分に従う人々に「あなたがたは私の弟子にはなれないから、私について来るのはやめなさい」ということを言おうとされたのでなく、弟子として従っている者たちに弟子として従うことの覚悟を問われたのです。
 私たちにとりまして信仰者として生きることは、楽なことでしょうか、それとも苦しいことでしょうか。それは簡単なことでしょうか、大変なことでしょうか。イエス様を信じて信仰の歩みを始めるために何かの条件があるわけではありません。イエス様が与えてくださる救いを受け取るためにふさわしい資質や資格が求められているわけでもありません。今日の福音書の日課には「弟子の条件」という小見出しが付けられています。小見出しは聖書の本文ではなく理解を助けるために付けられたものです。そして今日の個所を読みますと「弟子の条件」という小見出しが間違っているようには思えません。ではイエス様を信じて洗礼を受けることとイエス様の弟子になることが同じだとして、洗礼を受けることに条件はないはずなのに弟子として生きるための条件があるように思えるのはなぜでしょう。
 今日の個所でイエス様は二つのたとえを話されました。塔を立てようとする人は自分が持っている費用で足りるかと腰を据えてよく考えるものだ、戦をする王は自分の兵の力で勝算はあるかと腰を据えてよく考えるものだというたとえです。どちらも難しいものではありません。共通しているのは腰を据えて考えるということです。
 私たちも何か大きなことをしようとするなら、そのための準備やその力が十分かを熟慮するものです。それが重大なことであればあるほどよく考えるものです。イエス様の弟子になるというのは私たちの生涯で一番と言ってよいほど大きなことです。よく考えるように教えておられるのです。ただよく考えて準備が足りない、力がないと思うなら断念するように忠告しておられるわけではありません。イエス様は「あなたは弟子には向かないからあきらめて帰りなさい」と言おうとされたわけではないのです。だれもが無条件で弟子として招かれています。だれでもイエス様の弟子になれるのです。そしてそれは弟子になるのは無条件だったけれど、なってみたら話が違っていていくつもの条件が出てきたというようなことでもありません。
 よく考えなければなりません。イエス様が私たちに求めておられることは何でしょうか。なぜイエス様は私たちを弟子に招かれたのでしょうか。イエス様は私たちに救いを与えようとしてくださっています。私たちが自分の罪から、悪の力から解放されるように、また罪によって私たちに入り込んだ死から、死の恐れから解放されるように招いておられるのです。その救いは私たちが一人で受け取るものではなく人々と共に受け取るべきものです。罪の力は私たちを神から引き離し周りにいる人との関係を壊していくものですから、罪から解放されるということは神との関係と人々との関係が回復されるということです。神との関係もまた人との関係も回復されないまま死が取り除かれても、それは死からの解放にはなりません。自分一人だけで永遠に生きることができても、あるいは人々といがみ合い憎しみ合いながら永遠に生きることができても、それを救いとは呼べないのではないでしょうか。私たちが出会った人々と共に神の平安の中に入れられることが、イエス様が私たちに与えようとしてくださっている救いなのです。だからこそ私たちはイエス様から救いを受け取るときにその救いを人々に伝えていくための歩みが、すなわちイエス様の弟子としての歩みが始まるのです。
 今日の個所でイエス様がご自分について来る人々に求められたことは自分の家族や自分の命を憎むことです。「憎む」と訳されていますが「憎悪する」というよりは「選ばない」「退ける」というような意味の言葉です。つまりあなたが大切にしている家族や自分の命さえも退ける覚悟、犠牲にする覚悟で私に従いなさいということです。次は自分の十字架を背負ってついて来る者ということですが、これも死を覚悟してイエス様に従うということです。そして自分の持ち物を一切捨てることです。
 けれどもよく考えますと、私たちにはイエス様が求められたことが何一つできていないと言わなければならないのではないでしょうか。それでも私たちはイエス様の弟子としての歩みを続けているのです。できていないけれども、だから「あなたには弟子としての資格がない」とは言われないのです。イエス様は私たちを見捨てることなく、イエス様の後を従っているとも言えない私たちと共に歩んでくださっているのです。もう一つよく考えなければならないことがあります。それは私たちがどれだけ家族や自分の命、自分の持ち物を大切にしても、それだけでは私たちは救いに与ることができないということです。私たちを出会った人々と共に神の平安の中に招きいれてくださるのはただイエス様です。イエス様が十字架へと歩まれたから私たちは罪と死から解放され神の平安の中に入れられるのです。イエス様が私たちに求められる覚悟は私たちが神の平安の中に入るための覚悟です。ただイエス様に従うならばそこに簡単に入ることができるけれど、この世の歩みにおいてはそれを妨げようとするものも多いからどんなことをしても平安の中に入るようにしなさいということです。十字架を前にしてイエス様は、ご自分を裏切ってしまうペトロに「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22.32)と言われました。私たちのためにも、困難を乗り越え、信仰の歩みを全うするようにとイエス様は祈っていてくださいます。弟子としてふさわしいことの何一つない私たちですが、それでも出会った人々と共に主の平安に与るためにイエス様の弟子として歩み続けたいと思うのです。(2019年9月8日)