「ここに平安」-10月27日説教

マタイによる福音書5章1~6節
 「箱の中に投げ入れられた金貨がチャリンとなるや、たちまち魂は煉獄から飛び上がる」、この言葉は、『ルターの九十五個条の提題』にも記されていまして、宗教改革の発端にもなった贖宥状販売の「売り口上」、「売り文句」です。ルターの時代、罪を犯した者は、その償いをしなければならないと教えられていました。神から罪を赦された者であっても、自分の犯した罪の償いはしなければならず、生きている間にその償いができなければ死んだ後に「煉獄」という場所に行って、そこで償いをしなければならないと教えられていたのです。その償いを免除されることが「贖宥」であり、その贖宥を、お金を払って買うことができるようにしたものが免罪符とも呼ばれる「贖宥状」です。グーテンベルクが活版印刷を発明しなければ、宗教改革はなかったと言われますが、その印刷技術によって、それまでは手書きで作られていた贖宥状も大量に印刷され、教会は贖宥状を大々的に販売するようになったとも言われています。そして、贖宥状を販売する修道士たちが、町々で言葉巧みな説教によって民衆の不安をあおり、贖宥状を販売したと言います。「おまえたちは煉獄で苦しむ親たちのために何もしてやらないのか。びた一文すら出さないのか。金貨がたった一枚、この箱の中でチャリンと音をたてるだけで、煉獄の苦しみはたちまち消え、親たちは天国に召し上げられるというのに」、そんな売り口上によって贖宥状が販売されていたというのです。1517年、ルターはそういった当時の教会の間違いを正そうと『九十五箇条の提題』を記し、そこから宗教改革が始まりました。今日は宗教改革主日です。私たちの救いは、イエス様の十字架を通して、ただ恵みとして与えられていることを確かめる時、原点に立ち返る時です。そして、それぞれの信仰を新たにし、そこから再び信仰の歩みを始める時です。
 今日の福音書は「山上の説教」と呼ばれていますイエス様の教えの、その最初の言葉が記された個所です。「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである」と言ってイエス様は語り始められました。イエス様の周りにいた弟子たちも、その言葉を聞いていた大勢の群衆も、その言葉に驚いたに違いありません。日本語で心が貧しいと言いますと、一般的には心が狭い、人間としての器が小さいというような意味を考えるのではないでしょうか。教会でも罪の心を「私の貧しい心」と表現することもあります。また教会の伝統では、心の貧しい人とは、謙遜な人、へりくだった人のことだと説明されることもありました。心が狭いというのと、謙遜だというのでは、180度と言ってよいほど正反対の状態のようにも思えます。イエス様が言われたのは、どのような人のことなのでしょう。この「心」という言葉は、聖書で「霊」とも訳されるプネウマという言葉です。風、息吹、息という意味もあります。神のプネウマは聖霊のことです。風、霊、息、心、プネウマをどのように考えればよいでしょうか。ルカの福音書にも、今日の個所とよく似たイエス様の教えが記された個所があり、そこでは単に「貧しい人は幸いである」となっています。「貧しい人」に対して「心の貧しい人」であることを考えますと、物質的なことに対して精神的なことのようにも思えます。けれども、今日の「心の貧しい人」を「息の貧しい人」と考えればどうでしょうか。息は命の源です。神が息を吹き入れて、人は生きる者となるのです。その息が貧しいというのです。生きる力が弱々しい人ということになります。物質的とか、精神的とかいうことではなくその両方を含むような、食べる物もない、力もない、命が弱々しい、そんな人のこととも考えることができるのです。心も、命においても、何もかも不足している、満たされないどころか空っぽである、そんな幸せとは正反対の状態にある人のことを言われたと考えることができます。そんな人々をイエス様は幸せだと言われたのです。何故でしょうか。更にイエス様は言われます。「天の国はその人たちのものである」と。これがそんな人々が幸せだと言われる理由です。マタイの福音書で天の国は神の国のことです。そして、聖書で「国」という言葉は、本来「国土」を示す言葉ではなく「王の支配」を表す言葉ですから、天の国とは、死んだ後に行く場所というよりも、今もここにある神の国、神が王としておられるの国のことです。愛なる神が人々の神となってくださり、人々は神に守られ養われる民とされる、それが神の国です。もちろん、この世の命を終えても神の国は続きます。心も、命も、何もかもが弱々しい人々、からっぽの人々に、神はあなたの神となり、あなたを守り養ってくださるという宣言としてこのイエス様の言葉を聞くことができるのです。
 イエス様は「悲しむ人々は、幸いである」とも言われました。聖書の悲しむという言葉を辞書で調べてみますといちばん最初に記されている意味は「悼む」です。親しい人の死を前にして悼む人、家族の死を前にして深い悲しみの中にある人のことです。さまざまな悲しみを考えることも間違いではないのですが、まず始めに考えるべき悲しみは死の悲しみです。そんな悲しみの中にある人々のことをイエス様は幸せだと言われたのです。「その人たちは慰められる」からです。だから悲しむ人々は幸せだと言われたのです。ところでイエス様はこれらの言葉をだれに対して語れたのでしょう。聖書は「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」と記しています。そこに群衆と弟子たちがいたわけですが、イエス様はどちらに語られたのでしょう。どちらに対しても語られたと言ってよいと思いますが、聖書は近くに寄って来た弟子たちに対して語られたと記していると考えてよいようです。もちろん群衆もイエス様の言葉を聞いていましたし、イエス様も群衆が聞いていることを意識されていたに違いありません。ただ「弟子たちに」ということに意味があると思うのです。イエス様の招きに応えてイエス様の弟子となるところに、イエス様と共に生きる者となるところに大きな恵みがあるからです。悼む者、悲しむ者に慰めを与えてくださるのはイエス様です。その痛みを、その悲しみを、イエス様が受け止め、共に担ってくださるところに慰めがあるのです。ですからイエス様が共にいてくださることを感じられなければ、慰めを受け取ることができないのです。イエス様はそのことを群衆に伝えて、そこにいた一人一人をご自身の許に招こうとしておられたのです。
 宗教改革の発端となった贖宥状に縋り付こうとしていた人々のことを考えたいと思います。人々は、親や親しい人を亡くした悼みを感じる中で、慰めも希望も持つことができなかったということを思います。教会は不安をあおるだけで慰めを語ってくれなかったのです。また、煉獄で苦しんでいると教えられていた親の姿は、少し先の自分たちの姿であるようにも感じられことでしょう。死は、今よりもすぐ近くにあるように感じられ、日々を生きる中で、生きる力の弱さ、頼りなさを感じ、恐れと不安を覚えていたということを思います。そんな当時の人々は、イエス様が言われた「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」であったということを思います。イエス様は、そんな人々を罪と死から解放してくださるために十字架への道を進まれました。十字架は私たちを罪の悲しみと死の恐れから解放します。私たちは神の民とされて、慰めを与えられるのです。この恵みを人々が受け取ることができるようにするために宗教改革は始まったということを思うのです。私たちもまた、心も、命も何もかも空っぽで、罪に生きる心の貧しい者だと言わなければなりません。死を前にしても、自分の力によっては、その前で恐れと悲しみを抱くだけの者です。しかし、そのような私たちをイエス様は神の国へと招いてくださっています。ただ恵みによって神の民とされ、慰めと希望が与えられると宣言してくださるのです。それがイエス様と共に生きるということです。主の招きに応え、主と共に歩み始めるとき、私たちは幸いな者とされます。感謝と喜びをもって、この恵みを出会った人々に伝えながら歩んでいきたいと思うのです。(2019年10月27日)