「終りの日の平安」-11月24日説教

ルカによる福音書21章5~19節
 教会の暦では、聖霊降臨後最終主日となりました。今年もあとひと月と少しです。来週からはクリスマスを待つ待降節、アドベントが始まります。そしてクリスマスとなり一年の終わりの時を過ごし、新年を迎えます。私たちは一日、一週間、ひと月、一年というサイクルの中で生活をしています。しかし当然のことですが、私たちは毎年まったく同じことを繰り返しているわけではありません。クリスマス、新年というように同じ名前で行う出来事であっても、いつも一度きりの出来事です。私たちは二度と戻ることのない一度きりの「今」という時を生きているからです。そのように考えることは、私たちにとりましてとても大切なことであるように思います。
 エルサレムの神殿でのことです。神殿のすばらしさに見とれていた弟子たちにイエス様は「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と言われました。石を削り積み上げて造られた壮大な神殿だったのでしょうが、そのすべてが崩されると、崩されないままで石が石の上に残ることはないと言われたのです。イエス様が弟子たちに語られた終末について、世の終わりについて教えです。その時にどのようなことが起こるかをイエス様は教えておられます。イエス様の名を名乗る偽預言者が現れて私が救い主だとか、終わりの時が近づいたとか言って人々を惑わすというのです。また戦争や暴動など国や民族の間に争いが起こり、災害や飢饉が起こり、疫病などが広がります。それだけではありません。その中でキリスト者に対する迫害が起こり家族や友人にも裏切られるというのです。それが終末の徴というのです。初代教会の時代、教会の中に「世の終わりの時は近い」と考えがありました。パウロもそのように考えていたようですが、パウロの手紙には世の終わりが近いと考えて特別な行動を起こす人々を戒める言葉が記されています。世の終わりが来るからと考えて、もうどうでもよいというような投げやりな態度で生活をする人がいれば、反対に家族や仕事など一切を放棄して祈りの生活に入ろうとした人々がいたのだと思われます。世の終わりということを意識することは大切なことです。今日の個所でイエス様も世の終わりに心を向けるように教えておられると考えていいでしょう。けれども「世の終わりだから」という生活を始めるのではなく、「世の終わりが来ても」という生活をすることが求められているのです。
 私たちは初代教会の人々のように、世の終わりは近いと感じながら生活しているわけではないと思います。けれどもイエス様が終末の徴として教えられたことと同じようなことによって、私たちは今も苦しんだり悩んだりしながら生活しているのではないでしょうか。人々を惑わし、人々から搾取しようとする偽りの宗教やさまざまな力が私たちの世界を取り巻いています。戦争や争い、紛争で命を落とす人々や生活の場を失う人々、苦しみや悲しみに暮れる人々がいます。災害は日本でも、世界の至るところでも繰り返し起こります。食べる物にも不自由する暮らしをしている人々がいます。健康を損なうさまざまな危険が世界にあふれています。そして宗教間の争いも繰り返されていますし、キリスト者に対する迫害も起こります。家族の間でも親しい人との間にも争いが絶えません。そのような問題は私たちが生きるこの世界に絶えずあり、人々はそれらに苦しんできたということを思うのです。そのような苦しみの中にある私たちに対してイエス様が語ってくださった言葉が、今日の個所に記されていると考えてもよいと思います。世の終わりについての言葉は今を生きる私たちが聞くための言葉であると思うからです。
 世の終わりを終末と言います。私たちの人生の終わりの時も終末と言います。世の終わりの時に私たちに求められる信仰の在り方は、私たちがこの世の命を迎える時に求められる信仰の在り方と非常によく似ています。世の終わりと命の終わりは別のことですが、その時の信仰の態度はほとんど同じと言えるのです。私たちが自分の命の終わりの時について考え、その時をより良いものにしようとするなら、終わりの時へと向かう一日一日を大切に生きることになるのではないでしょうか。それは与えられている今をどう生きるかを考えるということです。そして私たちが、この世界の終わりの時について考えるということも同じように私たちが今どうあるかということを考えることだと思うのです。今日の個所で、イエス様が私たちに求めておられることは、終わりの時が来たという混乱が起こっても、惑わされないように気をつけることです。イエス様の名を名乗る者が現れてもついて行かないことです。戦争や暴動が起こると聞いてもおびえないことです。また、迫害の中で自分の在り方を問われるようなことになっても「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」とも言われます。そして、「忍耐して命をかち取りなさい」とイエス様は言われるのです。特別なことをするようには、何一つ求められていません。どう弁明しようかと準備をする必要もないとさえ言われるのです。けれどもそれは、何もしなくてもよいということでもありません。
 今日の個所の少し後で、イエス様は「いつも目を覚まし祈りなさい」(ルカ21.36)と言っておられます。いつもイエス様とつながっていることが求められているのです。目を覚ましていること、それはいつもイエス様のことを心に覚え、いつも御心を尋ね、神の前に正しく生きようと心掛けること、そのような在り方をまず考えるべきでしょう。そのようにできればよいのですが、なかなかできないのが私たちです。それでも、ときどきイエス様のことを忘れることがあっても、繰り返して罪を犯しても、その度にイエス様を思い起こし、イエス様に立ち帰り、悔い改めて、繰り返し罪の赦しを受け取りながら歩み続けていかなければなりません。うとうとしてしまうことはあっても、すっかり寝入ってしまわないように気をつけなければならないのです。そして、そのような歩みを続けていくために私たちは、イエス様が私たちのことを必ず守ると約束してくださっていることをしっかりと覚えておかなければなりません。イエス様は「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」と言われるのです。そのすぐ前に、あなたがたの中には殺される者もいると記されているのは、どういうことだと思われるかもしれません。殺されることがあるのに髪の毛の一本もなくならないとはどういうことでしょう。矛盾したことが記されているわけでありません。たとえ命を落としてもイエス様は髪の毛の一本までも守ってくださると約束してくださるのです。この世の命を超えてあなたの命を守るという約束です。
 今を生きる私たちへの言葉として、このイエス様の約束を聞きたいと思います。どんな苦しみがあっても、どんな困難があっても、たとえ命を失うことにあっても私があなたの命を守る、どこまでも引き受けるとだから、どんなことがあっても私を離れず生きていきなさいということをイエス様は私たちに伝えようとしておられるのです。終末についての教えは、世の終わりが来る時に聞くべき教えではありません。いつ世の終わりが来てもよいように、「今」聞くべき教えです。いつの時代の人々も聞くべき教えなのです。やがて訪れる終わりに向かっているということを心に留めながら、しかし終わりだからという生き方ではなくて、いつが終わりであってもよいという生き方をしていくことが求められているのです。さまざまな苦しみや困難の中を生きている私たちです。その中でイエス様は、私がいつも共にいて導きを与えるから惑わされてはならないと、私が共にいて守っているからおびえなくてもよいと言われます。どんな苦しみの中にあっても、私が共に苦しむから忍耐しなさいと言われるのです。だから命をかち取りなさいと、イエス様が与えてくださった主の命を生きなさいと言われるのです。どんな苦しみや困難にあっても、主が共にいてくださるとき、そこにはいつも安らぎがあることを覚えて歩んでいきたいとと思うのです。(2019年11月24日)