「あなたの灯火」-12月24日説教
ルカによる福音書2章1~20節
皆様とご一緒にクリスマスを迎えられましたことをうれしく思っています。この一年も終わろうとしています。どのような年を過ごされたでしょうか。どのような思いでこのクリスマスを迎えられたでしょうか。私たちそれぞれの歩みには、その真ん中に自分自身がいます。それぞれの人生が小説や映画になるようなものでないとしても、私たちの人生の主人公は私たち自身だと言ってよいでしょう。ただ私たちは、自分の人生にもう一人の主人公を迎えることができます。そのことを、このクリスマスの夜にご一緒に覚えたいと思いました。そのもう一人の主人公としてお迎えできる方は、今共にその誕生を覚えていますイエス・キリストです。
先ほどお読みしましたルカによる福音書の言葉は、クリスマスの出来事を、イエス様のお誕生を私たちに伝えている個所です。この個所を読まれてどのように感じられたでしょうか。教会で聖書を読むということは、教会での聖書の読み方は、聖書に記されている出来事を私に関わる出来事として読むことだという言い方ができます。自分宛ての手紙を読むように聖書に記されている言葉を読む、神が私に語られた言葉として読むということです。それはまた聖書に記されるイエス様の言葉を私への言葉として聞くことであったり、聖書の登場人物に自分自身を重ねて読むということであったりもします。
ルカの福音書に記されるイエス様の誕生の出来事を読むときに私たちは誰に自分を重ねることができるでしょうか。この個所の主な登場人物はヨセフとマリア、そして羊飼いたちです。最近母親になられた方やこれからなられようとしている方はイエス様の母マリアに、父親になられた方、なられようとしている方はヨセフに自分を重ねるかもしれません。けれども、多くの方は羊飼いたちに自分を重ねるのではないかと思いました。私も羊飼いに自分を重ねながら改めてこの個所を読んでみました。羊飼いたちは野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていたと聖書は記しています。クリスマスの出来事を伝える絵本などに描かれている焚火を囲みながら夜の野原で過ごしている羊飼いたちの姿を思い浮かべることができます。
当時の羊飼いの暮らしを考えますともう少し具体的にその状況を考えることができるかもしれません。ヨハネの福音書にはイエス様が「わたしは羊の門である」と言われ、そのすぐ後で「わたしは良い羊飼いである」とも言われたという個所があります。この個所について、イエス様の時代、羊飼いたちは実際に羊の門にもなったということを記した文章を読んだことがあります。当時、羊は夜になると石やとげのある茨で作られた囲い中に入れられたようです。羊を盗む者や狼などの野獣から羊を守るためです。そして羊飼いはその囲いの出入口となる場所に横たわって、その出入り口を塞ぐようにしてまさに羊の囲いの門となって夜を過ごすことがあったというのです。そんな状況を考えてもよいのかもしれません。人々が暮らす町や村から少し離れた場所に作られた羊の囲いの傍らで数人の羊飼いたちが羊の番をしています。羊を盗む者や野の獣を警戒しながら緊張感を持ちながら、眠気や寒さに耐えながら夜明けを待っている、そんな状況を思い浮かべることができると思うのです。
旧約聖書には人々が守るべき律法が記されていまして、聖書の時代の人々は律法に従って生活をしていました。よく知られていますモーセが神から授かった十戒も律法ですがそれは律法の一部分で、律法は十の戒めどころか「こうしなさい」「これはしてはならない」という何百もの戒めがあります。そして更にその戒めを実際の生活に適応させるためにその何倍もの規定が作られていたといいます。けれども羊飼いたちは羊のための生活をしなければならず、細かな規定に従って生活することが難しかったというのです。それで羊飼いという職業は人々からさげすまれていたと言われています。一方で羊飼いは伝統的な職業であり旧約聖書に登場するダビデやモーセも羊飼いでしたから、由緒ある職業とされていたとも言われてます。実際はどうだったのでしょうか、おそらくどちらも本当だったのだろうと思います。人はだれかが称賛されればそのことを妬みけなしたくなる心を持っていたり、自分を人より大きく見せ、反対に人を自分より低く考えようとしたりするところがあると思うからです。羊飼いを由緒ある職業としながらも同時に彼らをさげすもうとする、そんな思いも人々にはあったということを思うのです。
では羊飼いたちはどうだったでしょうか。どのような思いで暮らしていたのでしょう。由緒ある職業という誇りもあったでしょう。しかし律法を守ることができないという痛みも感じていたと思います。あるいはそのような自分を正当化しようとする思いもあったかもしれません。人々のさげすむような視線を感じることもあったかもしれません。私たちの現実がそうであるように彼らの思いも一つではなかったはずです。さまざまな思いの中で、世間と戦いながら、自分自身とも戦いながら、しかし時に疲れたり、敗北感に包まれたりしながら生きていたのではないかと思います。そんな羊飼いたちに天使が現れ、彼らは「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」という言葉を聞きました。私たちも今、聖書をとおして救い主がお生まれになったという喜びの知らせを聞きました。更に「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」という天使たちの賛美を聞きました。私たちは天使の言葉を、天使たちの讃美を自分に関わる言葉として聞くことができるでしょうか。
羊飼いたちは「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」とお生まれになったイエス様を見つけるために出かけて行ったというのですが、その時の彼らの思いも、ただ喜ぶだけではなかったのではと思いました。天使たちの「地には平和、御心に適う人にあれ」という賛美の言葉について考えていましてそう思ったのです。平和は御心に適う人にあるのです。神のみ心に適う生き方をする人に、神に喜ばれる人々に平和があるようにという賛美の言葉です。羊飼いたちはそのような賛美を聞いて自分たちのことだと考えることができたのだろうかと思ったのです。
私たちはどうでしょう。神の子救い主がお生まれになりました。けれども私は神の清さとはかけ離れた存在だという思いが、私たちの中にもあるのではないでしょうか。しかしイエス様はお生まれになったのです。人をさげすもうとする心を持つ人にも、そのような世間の視線を感じて悲しんでいる人にも、また自分の心の醜さを感じたり、自分に自信をもてなかったりしている人にも、神の御心とはかけ離れた生き方をしていると言わなければならない人にも、イエス様は救い主としてお生まれになったのです。私たちそれぞれの心にイエス様は来てくださるのです。神の御心とはかけ離れた生き方をしている私たちであっても、そんな私たちが自分の心にイエス様をお迎えすることこそが、神の御心なのです。
クリスマスを聖なる夜、「聖夜」と言います。けれどもクリスマスに聖さだけを考えるのは間違いです。今夜だけは、このクリスマスの夜だけは、この世の中の嫌な部分、自分の嫌な部分を忘れて聖さの中で過ごそうということではないのです。イエス様は罪に満ちたこの世界に、自分でも見つめたくない私たちの罪のただ中にお生まれになってくださいました。それは私と共に私の人生を歩んでくださるためです。悲しみや痛みを抱える私たちを、それだけでなく深い罪にもある私たちをそのまま受け入れ、愛し、赦してくださるためにイエス様は私たちそれぞれの心に来てくださるのです。どんなに罪深い心であってもイエス様の愛はその心を包み、赦しを与えてくださいます。私たちにイエス様の赦しとイエス様の聖さが与えられるのです。それが神が私たちに与えてくださっているクリスマスの出来事です。私の人生のもう一人の主人公であるイエス様と共に歩み出したいと思います。私たちの闇の心に、灯火として来てくださったイエス様と共にそれぞれの人生を歩んでいきたいと思うのです。(2019年12月24日)