「いのちの始まり」-1月12日説教

マタイによる福音書3章13~17節
 聖書は、イエス様がお生まれになった時のことを記していますが、それが12月25日のことだと記されているわけではありません。教会の歴史を振り返るといろいろな時期にイエス様の誕生を覚えていたようですが、主に二つのクリスマスがあったと言います。ローマを中心とする西方教会では12月25日、ギリシャを中心とする東方教会では1月6日でした。そのような状況にありましたが4世紀に、12月25日をイエス様が誕生した日、1月6日を東の国の博士たちがイエス様を礼拝した日とすることになり、今日では世界の多くの教会で12月25日を降誕日、1月6日を顕現日としています。
 今日は主の洗礼日ですが、この主の洗礼日も「1月6日のクリスマス」と関連があるようです。ある人々は、人であったイエス様が洗礼を受けられた時に神となられたと考えており、1月6日にイエス様の洗礼を覚え、祝っていたと言います。けれどもイエス様はお生まれになった時から神ですから、この人々の考えは異端とされてしまいます。それで1月6日をイエス様の誕生を覚える時とするようになったというのです。「1月6日のクリスマス」の起源です。そして主の誕生を覚える時に続いて、イエス様の洗礼を覚えることもこの時期のこととして残り、主の洗礼日が守られるようになったというのです。
私たちは今、お生まれになったイエス様が救い主して人々に示された主の顕現を覚える顕現節を過ごしているわけですが、イエス様が洗礼を受けられたという出来事は顕現節にふさわしい出来事です。今日は共に主が洗礼を受けられた出来事に心を向けたいと思います。
 イエス様が救い主としての活動を始められる直前、洗礼者ヨハネが人々の前に現れまして悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。すると国中からヨハネの許に人々がやって来てヨハネから洗礼を受けました。その中に、その人々の一人としてイエス様もおられたのです。これは成人されたイエス様が最初に人々の前に姿を現された出来事と言えます。悔い改めの洗礼を宣べ伝えるヨハネの言葉を聞いて集まってきた人々の中にイエス様はおられ、ヨハネから洗礼を受けられたのです。聖書にはその時「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえたと記しています。このことは今日の日課であるマタイの福音書だけでなく、マルコの福音書にも、またルカの福音書にも記されていることです。ただマルコの福音書とルカの福音書では「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声ではなく、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえたと記されています。よく似た言葉ですが「これはわたしの愛する子」というのと「あなたはわたしの愛する子」というのでは、神が語りかけた相手が変わってきます。マルコとルカでは神がイエス様に向かって語られた言葉ということになります。しかし今日の日課であるマタイの福音書では、神が洗礼者ヨハネに、またそこにいた人々に語られた言葉ということになるわけです。
 イエス様が洗礼を受けられたのは一度だけのことですから、本当はどちらだったのだろうということを思うかもしれません。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書では、マルコの福音書が最初に書かれ、マタイとルカ、それぞれの福音書記者は、マルコの福音書を知っており、福音書を記す時にマルコの福音書を資料の一つとして用いたと考えられています。そのことから考えればマタイがマルコにあった言葉を「これはわたしの愛する子」と書き換えたと考えることもできます。けれども、だとしたらマタイの福音書の言葉は間違いだと考える必要はありません。マタイの福音書が伝えようとしたことは何かということを考えることが大切なのです。マタイの福音書は、イエス様が「神の子であり、神の御心に適う方である」ことを、神がそこにいた人々にも伝えたと記しているということです。神はイエス様に語られただけではなく、そこにいた人々にもこのことを示されたのです。そしてこのマタイの福音書をとおして神は私たちにも示してくださっているということです。このことはまさにイエス様は神の愛する子であり、神の御心に適う方であるということがはっきりと示された、神の言葉によって示されたという顕現節に読まれるにふさわしい出来事なのです。
 ただそのことは洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けた方が、神の愛する子であり御心に適う方であると神が教えられたということにもなるわけです。なぜ神から「わたしの愛する子」と「わたしの心に適う者」と言われた方が、悔い改めの洗礼を受けなければならなかったのでしょうか。そのことはイエス様に洗礼を授けたヨハネ自身も疑問に感じたことでした。聖書にはヨハネの「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」という言葉が記されています。ヨハネが人々に悔い改めの洗礼を宣べ伝えたのは、救い主を迎えるために、その備えをする必要があると考えたからです。ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と言いました。悔い改めの洗礼を宣べ伝えている自分は別だとは、思っていないのです。自分もその一人、自分こそ悔い改めの洗礼を受けなければならない者だと考えていたということです。すぐ前の個所でヨハネは「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」とも言っています。人々を教え導いたヨハネですが、彼は自分をイエス様と同じ立場にいるとは少しも考えていなかったということです。イエス様と同じところに立つことのできる人などだれもいません。洗礼者ヨハネは聖書に登場する人物でもっとも偉大な者と言ってよいほどの信仰者です。そのヨハネでさえイエス様には遠く及ばないのです。イエス様は神の子だからです。神ご自身だからです。
 そのイエス様が悔い改めの洗礼を受けられたのです。イエス様のお迎えするための悔い改めの洗礼です。イエス様には悔い改める必要などないのです。悔い改める必要のない方が悔い改めの洗礼を受けられたところに意味があります。悔い改めの洗礼を受けるためにヨハネの許にやって来た人々の中にイエス様はおられ、人々と共に洗礼を受けられました。それはイエス様が私たちと共に悔い改めてくださったということです。私たちに代わって悔い改めてくださったということなのです。例えば、私たちが大きな過ちを犯してしまい、その相手に対して謝罪しなければならない時に、イエス様が一緒に謝りに来てくださり、私と一緒に頭を下げてくださった、私に代わって「どうかこの人を赦してください」と、「償いは私がします」からと謝ってくださったということだと考えてもいいでしょう。
 イエス様の救い主としての始まりには、私たちのための悔い改めがあったということです。そしてイエス様の救い主としてのご生涯の終わりの時には私たちのための十字架があります。十字架の上でイエス様が「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23.34)と言われたことを聖書は記しています。イエス様のご生涯は、私たちの罪を赦すためのご生涯だったのです。私たちに代わって悔い改めてくださった方を、私たちの罪を赦すために十字架にかかってくださった方を、神は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言って、私たちに示されたのです。洗礼者ヨハネの許に行き、ヨハネから悔い改めの洗礼を受けようとしていた人々は、自分たちの中におられるイエス様が救い主だとは気づいていなかったということを思います。ただ一人そのことに気づいたヨハネも、イエス様がなさろうとしていることを理解することはできませんでした。私たちには神がなさることを正しく理解することはできないのです。それはイエス様の救いは人の思いを超えて私たちに与えられるということでもあります。私たちが思い描く計画ではなく、ただ神のみ業に委ねていくところに私たちの救いがあるということを思います。そしてだからこそ私たちは安心して、主にお任せすることができるのではないでしょうか。私たちの罪を赦し、私たちを新しい命に生きる者としてくださる主のみ業に委ねていきたいと思うのです。(2020年1月12日)