「あなたの輝き」-2月9日説教

マタによる福音書5章13~20節
 子どもの頃は、大人になったらこんな仕事をしたい、こんな生活をしたい、こんな大人になりたいといった夢をたくさん持っていたのに、大人になるにしたがって夢はだんだん少なくなっていく、そんな現実があるように思います。将来のこうありたいという思いがあっても、それは夢というより、もっと現実味を帯びた目標と言うべきものに変わってしまっているということも思います。けれども、聖書は「老人は夢を見、若者は幻を見る」(ヨエ3.1,使2.17)と私たちに告げるのです。この夢と幻は同じだと考えていいでしょう。神に導かれて生きようとする時に、私たちは年齢に関係なく神が見せてくださる世界を見ると、神が与えてくださる夢を、幻を見ることができるというのです。神が与えてくださる夢は私たちに希望を与えます。生きる力を与えます。けれどもその夢に時に戸惑いを覚えることもあるかもしれません。神が見せてくださる世界と私たちが生きる現実の間の隔たりが大きすぎるように感じて、本当だろうかと疑いを抱いてしまうこともあると思うのです。
 イエス様は「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と言われました。今日の福音書の日課です。この言葉にも私たちは、私たちの現実とイエス様の言葉の間にある隔たりの大きさに、戸惑いを感じてしまうのではないでしょうか。イエス様はご自分の教えを聞く弟子たちに、あなたがたは地の塩だと、世の光だと言われたのです。塩も光も、大切なものです。塩は調味料としても重要ですが、単に料理を美味しくするだけではありません。塩分が不足すると健康を保つことができなくなります。私たちが生きていく上で欠くことのできないものです。食べ物の保存にも重要な役割を果たします。光も生活が便利になるというようなものではなく、なければ生きることができなくなるものです。その重要性は、今を生きる私たちにとっても、聖書の時代の人々にとっても変わらないと言ってよいでしょう。今のように塩分も、光も、手軽に手に入れることのできる私たちでさえ塩も光も大切だと感じているのですから、聖書の時代の人々はなおさらだったと考えた方がよいかもしれません。
 イエス様は弟子たちに、あなたがたはこの世にとって塩や光のような欠くことのできない存在だと言われたのです。それは私たちに向けられている言葉でもあります。私たちはこの言葉をどのように感じるでしょうか。イエス様は塩のように、光のようになりなさいと命じられたわけでも、私があなたがたを塩のような、光のような存在にしようと約束されたわけでもありません。あなたがたは地の塩である、世の光であると言われたのです。既にそのような存在だということです。それだけではありません。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」とも言われました。自分に向けられた言葉ではないように感じるかもしれません。しかし、それはイエス様の言葉を聞いていた弟子たちも同じであったと思います。「あなたがたの立派な行いを見て」という言葉を聞いて戸惑いを感じるのは、私たちだけではないと思います。そして私たちは確かに地の塩に、世の光にふさわしくないということを思うのです。それはイエス様もよく分かっておられたことだと思います。それでは、なぜイエス様はこのように言われたのでしょうか。
 教会のことを考えたいと思いました。イエス様は、弟子たちに対して「あなたがたは地の塩である」「世の光である」と言われたのですから、この言葉を、弟子の群れである教会に向けて言われた言葉として考えたいと思ったのです。教会は地の塩と言えるでしょうか。世の光と言えるでしょうか。今私たちが集っているこの池袋教会は、地の塩、世の光でしょうか。人の集まりが教会なのですから、イエス様の言葉を教会についての言葉として考えたとしても大きく事情が変わるわけではありません。池袋教会は、私たちなのです。ただ、私たち自身も私たちの教会に期待しているところがあるということを思います。この私もそうです。教会がイエス様から罪を赦されなければならない者たちの集まりであることは教会に集う私たちがよく分かっていることだと思います。赦されてもなお罪に生きる者たちの群れであると言わなければなりません。そして、教会の足りない部分や課題も、私たちは感じていると思います。それでも私たちは私たちの教会に期待をしているということを思うのです。こんな教会であって欲しい、このような群れになっていきたいと教会に期待しているのです。互いに受け入れ合い、互いに祈り合い、励まし合う教会でありたい、初めて来られた方を温かく迎える教会でありたい。この地にあって地の塩である教会でありたい、この世の光となる教会でありたいと、私が自分自身を見つめる時には、感じることのできないような期待を、教会を見つめるときには感じることができるのです。
 なぜでしょうか。自分一人の歩みではないということも、そのように感じることのできる理由の一つだと思います。けれども何よりもそのように感じることのできる理由は、教会がキリストの体だからです。教会の中心にイエス様がおられるからです。イエス様が地の塩であり、世の光であることは、私たちが素直にうなずけることではないでしょうか。そのイエス様が頭としておられる教会だから、イエス様の体である教会だから、私たちは教会に期待することができるのです。罪に生きる私たちの現実と地の塩、世の光にふさわしいイエス様の間には、計り知れない隔たりがあることも事実です。しかし、イエス様がそんな私たちを教会の体とされたのです。それはイエス様の御業です。だからイエス様は、私たちを既に地の塩と世の光とされたのだということを思うのです。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」とイエス様は言われました。私たちの光はイエス様です。イエス様を人々の前に輝かせることが、私たちに与えられている務めです。「あなたがたの立派な行いを見て」という言葉の前に立派な行いなどできないことを感じる私たちですが、それでもイエス様に従って歩み出すとき、私たちの歩みは光を輝かせる歩みとなるのです。
 塩と光には共通点があると思います。それは塩も、光もそれ自身が主役ではないということです。どちらも欠くことのできないものであって、主役であってもおかしくないのにどちらも引き立て役です。塩は食べ物に味をつけ、そのものを引き立てようとします。光も、その光が照らし出すものに人々は注目をするということを思うのです。そして、それは正にイエス様のご生涯と言えるのではないでしょうか。私たちに命を与え、私たちを照らし、私たちが喜んで希望をもって生きることができるようにしてくださった方こそイエス様だということを思うからです。どう考えても私たちには、地の塩として、世の光として生きることなどできません。しかしそれでもイエス様は、その働きを私たちに託しておられるのです。
 イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と言われました。イエス様は私たちが律法を行う者になることを期待しておられます。私たちは律法ではなく福音によって、イエス様の十字架によって神に赦され神の命を生きる者とされます。行いによってではなく信仰によって、ただ恵みによって神と共に生きる者とされます。そのような意味では律法に生きる者ではありません。けれども、私たちは私の救いのために律法を行うのではなく、出会った人々のために、周りにいる人々のために律法を行うのです。律法を行うというよりもイエス様から受けとった神の愛を、出会った人々と分け合いながら生きると言った方がしっくりくるかもしれません。そのような歩みをすることをイエス様は期待しておられるのです。神の愛が私たちの間にあふれることを夢見たいと思います。私たちの教会をとおして人々に注がれていく、そのようなことを願いながら私たちそれぞれに与えられているイエス様の光を輝かせていきたいと思うのです。(2020年2月9日)