「まことの礼拝」-池袋教会『会報』より

「まことの礼拝」(2020年4月5日)
 3月29日は、前日の春らしい陽気から一転して雪になりました。この日、池袋教会では新型コロナウイルスの感染拡大防止のために主日礼拝を休止にしました。教会に連なる多くの方々が悲しみと痛みを感じながら、この休止という出来事を受け止められたに違いありません。これまで経験したことのない出来事でした。この経験の中で、いろいろなことを考えさせられています。そして「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12.9)と聖書が私たちに告げている言葉を思い起こしています。思い起こし、この出来事を教会の力や交わりが弱まる時にしてしまうのではなくて、むしろ変わらずに注がれている主の恵みに委ね、強められる時にしたいと思っています。
 ヨハネの福音書4.21に「イエスは言われた。『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る』」とあります。サマリア地方の井戸端で「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」と言ったサマリアの女性にイエス様が語りかけた言葉です。サマリアの人々も聖書に示される神を信じていたのですが、ユダヤの人々はサマリアの人々の信仰を認めず、互いに対立しており、サマリアの人々はゲリジム山で、ユダヤの人々はエルサレムの神殿で礼拝をしていました。しかしイエス様はゲリジム山でもエルサレムでもない所で神を礼拝する時が来ると教えられたのです。イエス様は更に言われます。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」(4.23)と。地上のあの場所とか、目に見えるこの神殿とかいうことではなく、霊と真理によって礼拝をする時が今来ているとイエス様は女性に教えられたのです。
 教会はひとつの場所に共に集うということを大切にしてきました。それぞれが都合のよい時間に教会に来てそれぞれで礼拝をし、また帰っていくというのではなく、日曜日の朝に同じ場所に集って共に礼拝に与って来たのです。「教会」と訳される「エクレシア」というギリシア語は人々の集まりを表す言葉です。キリストによって人々が集められて教会となるということです。けれども、ひとつの場所に集まるということには限界があります。日曜日の朝に教会に通える範囲からしか、人々は集まることができません。さまざまな理由によって日曜日に礼拝に来ることのできない方々もおられます。それでも教会はひとつの場所に共に集うということを大切にしてきました。それは目に見える繋がりを大切にすることだと言えます。とても大切なことです。これからもこの目に見える繋がりを大切にしていきたいと思います。けれども同時に見ることのできない主にある繋がりにも心を向けなければならないのだと思います。同じ時間に同じ場所にいなくても、主が結び合わせてくださっているということです。そのような繋がりが与えられていることを確かめる時、繋がりを実感する時が今であるということを思うのです。
 私たちは「礼拝に与る」という言い方をします。「礼拝する」とか、「礼拝を守る」と言うこともありますが、「礼拝に与る」という表現がもっとも使われているように思います。それは礼拝の中心にあるものが神の恵みだからです。礼拝は私たちの行為というよりも私たちに対する神の出来事です。私たちの神への応答も大切ですが、恵みを受け取ることこそが大切です。神の業であることをまず考えなければなりません。神が私たちを集め、私たちに語りかけ、救いを与え、祝福してくださる時が礼拝なのです。恵みを受けるからこそ、私たちの応答があるのです。
 恵みを与えてくださる神は時と場所を超えて、私たちに働きかけてくださる方です。信仰の目と耳を澄ませて、神が与えてくださる恵みを見つめ、またイエス様によって与えられている私たちの交わりを見つめたいと思います。今回の経験をとおして普段礼拝に集うことがかなわない方々にもう一度心を向けたいと思います。そして、共に集うことができる恵みに感謝し、目に見える繋がりが与えられているということをもう一度しっかりと受け止めたいと思うのです。教会に共に集い、見ることのできる礼拝をとおして主の恵みを受け取るほうが、私たちは恵みをしっかりと感じることができるでしょう。ただ恵みはどこにいても、いつでも既にあふれるほどに与えられているのです。そのことを忘れてはならないと思うのです。イースターを迎えます。目で見ることのできない復活の主が私たちと共にいて、今も働いてくださっていることを覚えたいと思います。
 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント4.18)