「希望はここにある」-3月29日説教

ヨハネによる福音書11章17~45節
 イエス様の十字架を見上げる時、私たちは十字架に私の罪の赦しを見ることができます。イエス様の復活を思い起こす時、私たちはこの世の命を超えた主にある永遠の命を見ることができます。この罪の赦しと永遠の命は別のもののように感じるかもしれません。けれども、十字架と復活が切り離せないものであるように、罪の赦しと永遠の命も切り離すことのできないものだということを思います。罪が赦されたという喜びは、赦された者としてイエス様と共に生きることができるという喜びであり、永遠の命が与えられるという希望は、イエス様の命をイエス様と共に生きることができる希望であると思うからです。イエス様がおられないところでは、罪の赦しの喜びも、永遠の命の希望も感じることができないのです。
 聖書は、イエス様がマルタとマリアの姉妹の弟ラザロを生き返らせたという個所です。ラザロが重い病気にかかっていたので姉妹はイエス様のところに人を送って、そのことを伝えました。それでイエス様は姉妹とラザロの住むベタニアに向かったのですが、イエス様がベタニアに着いた時にはラザロは既に亡くなっており、墓に葬られて四日が経っていたというのです。姉妹は深い悲しみの中で「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。彼女たちはイエス様なら、弟の病をいやしてくださるに違いないと考えていたのです。けれども弟が死んでしまった今となってはイエス様であってもどうすることもできないと感じ、深い悲しみの中にいたのでしょう。そのような悲しみにある姉妹の姉マルタにイエス様は「あなたの兄弟は復活する」と言いました。この言葉にマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えています。彼女は復活を知っていると答えたのです。けれども彼女の知っていた復活と、イエス様が言われた復活とは少し違っていたということを思います。イエス様の時代の民の指導者として、福音書にはサドカイ派とファリサイ派という二つのグループが登場しますが、そのうちのファリサイ派の人々は、復活を信じており、律法の教師として人々を教えていました。ですからマルタはファリサイ派の人々をとおして復活についての教えを聞いていたのだと思います。そしてファリサイ派の復活についての教えは、終わりの時に正しい人は復活するというものでした。ですからマルタは、希望を抱きながらこの教えを聞いていたわけではなかったと思います。律法の教師である自分たちのように律法を忠実に守っている人は正しい人であり終わりの時に復活する人、徴税人や異邦人など律法を守らない人や律法を知らない人は罪人であって復活できない人、一般の人々は律法に忠実に生きるなら正しい人として復活できるけれど、律法を守らないなら復活できない人となる、そのように考えられていたと考えてよいでしょう。そのような中でマルタは、復活は知っているけれど、その復活に希望を感じることができないでいたということを思います。そんなマルタにイエス様は言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と。復活するという希望を自分の行いの正しさに見出そうとするのでなく、イエスという方に見出すことができるということを教えている言葉です。「わたしは復活であり、命である」、イエス様が望みとなってくださいます。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」、自分の正しさとは関係なくだれもが希望をもって言葉を受け取ることができるのです。マルタは、「このことを信じるか」というイエス様の言葉に「はい」と答えました。「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」とイエス様に対する信仰を告白したのです。イエス様が神の子であり、救い主であるという信仰告白です。
 けれども出来事は少し複雑です。その後、ラザロが葬られた墓の前でイエス様が墓の入口を塞いでいた石を取り除けるように言われた時、マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言ったのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」というイエス様の言葉に、はっきり「はい」と答えたマルタでしたが、そのことが実際に自分の目の前で起こるとは信じられないでいるのです。イエス様に復活を信じると言ったマルタですが、それでもラザロが実際に生き返って墓から出てくるということは彼女にとってありえないことだったのです。信じますと答えたマルタでしたが、本当は信じることができなかったということでしょうか。マルタの姿は私たちの姿であるように思います。私たちは、礼拝で使徒信条によって「からだのよみがえり、限りなき命を信ず」と信仰の告白をしています。復活と永遠の命を信じますと告白しているのです。そのように告白し、復活の望みを抱いていると言ってよいでしょう。けれどももしマルタのように、今、自分の目の前で亡くなった人が生き返ると聞いたら、素直に信じることができるでしょうか。私たちの信仰は不完全なものだと言わなければなりません。それでは、私たちは、復活を信じる信仰に生きているとは言えないということなのでしょうか。
 マルタはイエス様の「わたしは復活であり、命である」という言葉に、「わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」という言葉に「はい」と答えました。この「はい」という言葉に彼女の信仰があるということを思います。マルタ自身は、復活を信じる確かな信仰をもっていたとは言えません。しかし、イエス様の「わたしは復活であり、命である」という確かな言葉に委ねていくところにマルタの信仰があるのです。マルタ自身には揺るがない確かな信仰がなくても、彼女は揺るがない確かな方に委ねていくことができたのです。そこに彼女の確かな信仰があるということを思うのです。イエス様がおられるところに私たちの確かな希望があります。イエス様に復活の希望があります。主が与えてくださる希望を生きるものでありたいと思うのです。(2020年3月29日週報より)