「私たちを繋ぐ主」-4月12日(復活祭)説教
マタイによる福音書28章1~10節
イースターを、共に教会で迎えることはかないませんでした。予想もしなかったことです。この状況の中でさまざまなことを考えています。神の御心は何かということを考えています。ただ、どのような中にあろうとも私たちには、はっきりと示されている神の御心があります。そのことを見失ってはならないということも思っています。それは神を愛することであり、隣人を愛することです。聖書が教えているようには神を、また隣人を愛することのできない私たちですが、あきらめてはならないのです。神も隣人も愛せない私たちあるから愛そうとして歩み出すことが神の御心であるということを思います。そして愛そうとする一歩を踏み出す時に神が私たちを愛してくださっていることを思い起こさなければなりません。イースターを迎えました。今も生きて働かれる復活の主と共に、神の御心を行う歩みを始めて行きたいと思います。
聖書は、マタイの福音書に記されるイエス様の復活を伝える個所です。イエス様が復活されたという知らせを、最初に聞いたのは婦人たちでした。「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」と聖書は記しています。イエス様は十字架の上で息を引き取られた後、すぐに墓に葬られました。それで婦人たちはその日没から始まった安息日を安息日の規定に従って過ごし、安息日の翌朝日曜日の明け方に墓に行ったということです。しかしイエス様は復活されてそこにはおられず、婦人たちは天使からイエス様が復活された聞き、そのことを弟子たちに告げるように言われたのです。その後、弟子たちのところに向かう途中で婦人たちは復活されたイエス様に再会するのですが、この順番が大切であるように思います。天使からイエス様の復活を聞いた後に、イエス様と再会したという順番です。復活のイエス様を自分の目で見る前に、イエス様が復活されたという言葉を聞くということが大切なのです。復活を信じる信仰は、復活を伝える言葉を聞くことに始まるからです。
どうして言葉だけで信じることができるだろうと思うかもしれません。しかし言葉こそが大切なのです。その言葉は、イエス様ご自身の復活を予告された言葉に遡ることができるからです。天使は言いました。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と。イエス様が言われていたとおりに、主は復活されたのだということです。聖書は少し前の個所に、イエス様が十字架にかかられる前の晩のことを記した個所に「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(マタイ26.32)というイエス様の言葉が記されています。イエス様の復活を告げる個所を読んでいますと、ほとんどと言ってよいほど弟子たちは復活のイエス様に再会する前に、イエス様が復活されたという言葉を聞いています。そしてイエス様は「見ないのに信じる者は幸いである」(ヨハネ20.29)と言われたのです。ですから、最初にイエス様に再会した婦人たちにとってイエス様と再会したということと共に、天使からイエス様の復活を知らされたということ、天使の言葉によって復活を告げておられたイエス様の言葉を思い出したということが大切なのです。そのようにして婦人たちは、弟子たちにイエス様の復活を伝えるという大切な働きを与えられるのです。
イエス様は十字架にかかられる前の晩に弟子たちにこのようにも言われました。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ」(マタイ26.31)と。羊飼いはイエス様で、羊は弟子たちです。羊飼いであるイエス様が打たれるので、羊である弟子たちは散ってしまうというのです。弟子たちは散っていきました。弟子たちはイエス様の復活を聞くことがなかったら、散ってしまった弟子たちは、その後散り散りになったままで再び集められることはなかったのではないかと思います。婦人たちは、天使からイエス様が復活されたという言葉を与えられて弟子たちのところに向かいました。聖書は「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と記しています。弟子たちを再び結び合わせる喜びの知らせをもって婦人たちは彼らのところに走ったのです。散り散りになるところだった弟子たちは、イエス様の復活によって、再び結び合わされました。そして婦人たちにイエス様の復活を伝える働きが託されたように、再び結び合わされた弟子たちも同じ働きへと召されていったのです。
私たちは、イエス様の復活によって、この地上の時を終えて既に召された方々と地上の歩みを続ける私たちが、今もなお結び合わされているという希望を与えられています。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(Ⅰコリント15.20)と聖書は伝えています。けれども、それだけではありません。復活のイエス様は、この地上の歩みを続けている私たちをも、結び合わせようとしてくださっているのです。そのように
考えますと、復活されたイエス様は、私たちの周りにあるさまざまな関りを回復してくださるということに気づかされます。十字架と復活によって、私たちの罪は赦されました。それは神と私たちの関りが回復されるということです。復活によって、今の生きて働かれるイエス様ご自身と私たちの関りも回復されました。イエス様の復活によって、私たちと召された方々との関りも、回復されました。そして、地上の歩みを続ける私たちの関りもイエス様によって回復されるのです。イエス様はそのことを願っておられるのです。どのような時も神の御心は、神を愛し、隣人を愛することです。神と隣人を愛する歩みは、神とつながっていること、また、隣人を大切にすることから、そのような一歩から始まります。復活されたイエス様は私たちと共にいて、そのような一歩へと私たちを押し出してくださるのです。今の状況は、私たちが人と握手をしたり、手を取って励ましたりするどころか、その傍らにいることすら、人と会うことすら難しくさせています。けれども、だからこそ復活のイエス様が私たちを結び合わせてくださっていることを覚えたいと思います。見ることのできない復活の主が、離れた場所にいる私たちの関りを確かなものにしてくださることを信じたいと思うのです。(2020年4月12日週報より)