「いつも礼拝」-5月24日説教

ルカ による福音書24章44~53節
 信仰の歩みにおいて私たちは、さまざまな経験をします。似たような出来事であっても、それはその人だけの経験です。福音書に記される弟子たちもさまざまな経験をしました。イエス様と共に過ごし、十字架と復活の目撃者となった彼らは、私たちが経験していない多くのことを経験し、また大きな恵みを受け取ったと言えるでしょう。
 それから二千年という時を経て信仰の歩みをしている私たちも、聖書の時代の弟子たちが受けとっていないさまざまな恵みを受け取っていると考えるべきです。聖書に登場するイエス様と共に過ごした弟子たちは、確かに特別な存在であると思うのですが、それでも私たちも聖書の時代の弟子たちと変わらないたくさんの恵みを、決して不足することのない充分な恵みを受け取っているということを思うのです。
 今日は昇天主日、イエス様が天に昇られたという出来事を覚える礼拝です。弟子たちはイエス様が天に昇られるという出来事を目撃しました。それは聖書に登場する一部の弟子たちが経験したことです。けれども聖書をとおして私たちも、彼らが受け取った恵みと同じ恵みを受け取りたいと思います。
 聖書は、ルカの福音書が記すイエス様の昇天の個所です。弟子たちの目の前でイエス様が天に上げられたと記されていますが、この昇天とはどういうことでしょうか。それはイエス様が地上を離れて、遠く空の果てに行ってしまわれたということではないと思います。そうではなくイエス様は、父なる神がおられる所に行かれたのです。ここでの「天」とは、神がおられる場所です。
 イエス様が天に昇っていかれたので、弟子たちはイエス様を見ることができなくなりました。それはイエス様が遠くに行かれ離れ離れになったから見えなくなったのではなく、神としておられる所に行かれたから見えなくなったと考えるべきでしょう。神は見ることのできない方なのです。
 しかし神は「あなたと共にいる」と言ってくださる方です。見ることはできないけれども共におられる方が、聖書が示す神なのです。聖書は「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と記しています。弟子たちは、イエス様が天に昇っていかれた後も大喜びでいることができたのです。それは彼らが、神として共におられるイエス様を感じていたからに違いありません。私たちは、イエス様の昇天を弟子たちのように目撃したわけではありませんが、彼らと同じ恵みを受け取っているということを思います。
 聖書にはイエス様が弟子たちを祝福し、祝福しながら天に上げられたということが記されています。彼らは見ることができなくても、共におられるイエス様の祝福の中にいつまでもいることができたのです。それは今も変わらず、私たちにも与えられている祝福です。
 神に祝福されるということは神の恵みにあふれた人生を送るということです。今日の個所の最後に弟子たちが「神をほめたたえていた」とありますが、聖書の言葉ではこの「ほめたたえる」も「祝福する」も同じ言葉です。神から人に向かうときに「祝福」と訳され、人から神に向かうときには「ほめたたえる」と訳しているのです。けれども神から人に向かうときと人から神に向かうときでは、その中身には大きな違いがあるように思います。
 人が神をほめたたえること、讃美することはできても、恵みを与えるというようなことはできません。私たちにできる讃美であっても、心を伴わない形だけのものになっていることも、少なくないと言わなければならないでしょう。
 しかし神が私たちを祝福してくださるということは、不確かな、形だけで中身が伴っているかは分からないというようなことではありません。イエス様が祝福してくださるとき、神の祝福が与えられるとき、そこには確かな変わることのない神の恵みがあるのです。将来に祝福が約束されるならば、今は恵みを感じることができないとしても、やがて確かに恵みが与えられるということなのです。
 私たちの歩みは神の祝福にあふれています。神の恵みはいつもあふれるほどあるのです。私たちの日々の歩みの中には困難もあります。苦しみや悲しみに襲われることもあります。けれども神の恵みは、困難や苦しみがあるからといって小さくなるものではありません。
 「10」の恵みがあって「5」の困難があるから恵みが「5」に減ってしまう、苦しみが「10」あるときは恵みがなくなってしまうというようなことではないのです。私たちが恵みを見過ごしてしまうことはあっても、恵みは「10」のまま、充分なあふれる恵みが絶えず私たちに注がれているのです。
 イエス様は「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と言われました。「十字架にかかられ、復活されたイエス様から与えられる罪の赦しが世界の人々に宣べ伝えられる」という聖書をとおして示された神の計画は、必ずすべて実現すると言われたのです。罪を赦され、神の民として神と共にいることができるようになる、すべての人にこの恵みが伝えられるという神の約束です。この恵みこそ、神が私たちに与えてくださる何よりも大きな恵みであり、この恵みに心を向けるときに私たちは、どんな困難や苦しみ、悲しみがあっても恵みは絶えず私たちに注がれているということを思い起こすことができるのではないでしょうか。
 見ることのできない神からの確かに恵みは、神からの祝福は、礼拝という出来事の中にあふれています。今、私たちは教会に共に集って礼拝に与ることがかなわないときを過ごしています。しかし見ることのできない神からの祝福は私たちにあふれているのです。
 教会でなされる共に集う礼拝が大切であることは変わりません。けれども共に集うことがかなわない今、神の恵みが小さくなっているということはないのです。神はいつでも私たちに恵みを注いでくださいます。私たちが赦しを求めるとき、赦しを与えてくださいます。私たちはいつでも礼拝に与ることができるのです。
 教会での礼拝は、信仰の歩みを続けている私たちが、共に集い、共に恵みを受け取ることができる時です。共に集い、共に恵みを受け取るということが、また大きな恵みです。けれども、時と場所を超えて働かれるイエス様をとおして、今も私たちはそれぞれの場所で共に恵みを受け取ることができているということを思います。
 今それぞれの場所で、見ることのできないイエス様に心を向けたいと、見ることのできない恵みに心を向けたいと思います。天に昇られたイエス様は今も私たちと共にいて、それぞれの場所にいる私たちを一つとしてくださいます。そのことを覚えつつ、改めて共に教会に集う恵みを待ち望みながら、信仰の歩みを続けていきたいと思うのです。(2020年5月24日週報より)