「心の距離」-6月7日説教
マタイによる福音書28章16~20
「いまだかつて、神を見た者はいない」、ヨハネの福音書(1.18)に記されている言葉です。神を見ることができないということは、旧約の時代から教えられていたことです。それはまた今の私たちにも当てはまることだと言えるでしょう。ただヨハネの福音書の「いまだかつて、神を見た者はいない」という言葉は、このように続きます。「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。私たちには神を見ることはできないけれども、神の独り子である神、イエス様が私たちに神を示してくださると教えているのです。
今日は三位一体主日です。私たちの信じる神が、父と子と聖霊の神であることを覚える礼拝です。と言いましても、私たちは神を見ることができないのですから、三位一体の神がどのような姿で、どのように存在しておられるのかを知ることはできないと考えるべきです。しかし私たちは大切なことを知っています。イエス様が示してくださったからです。イエス様によって、神がどのような方であるかということを私たちは知っているのです。そのことに共に心を向けたいと思います。
聖書は、マタイの福音書の終わりの部分です。復活されたイエス様が弟子たちに宣教を命じられたという個所です。とても大切な出来事と言えます。復活のイエス様と再会した弟子たちは、イエス様にひれ伏しました。イエス様を礼拝したのです。けれども聖書は、その中に「疑う者もいた」ことも記しています。原文でこの部分は複数形で記されていますから、何人かの弟子たちが疑っていたということになります。自分たちの目の前に復活されたイエス様がおられるのに、彼らの中に「この人は、イエス様ではないかもしれない」と考えていた者たちがいたのです。このことを私たちはどのように受け止めればよいでしょうか。
疑いを持つ者たちのいる弟子の群れに、イエス様は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われました。イエス様は彼らを宣教の働きへと派遣されたのです。これは驚くべきことではないでしょうか。疑いを持つ者たちも宣教へと遣わされていったということです。弟子たち自身は疑いを克服する力を持っていなかったということを思います。けれども彼らはイエス様の弟子でした。不完全であり、疑う心を持っていても、イエス様を私の救い主とし、主の働きをする者たちだったのです。信じることができたと思えても、何かの拍子に信仰が揺さぶられるというようなことの繰り返しの中で、主にすがりながら信仰の歩みをつづけている、そんな弟子たちの歩みを思い描くことは間違いでないように思います。彼らは自分たちの信念とか、自分たちの強さによって宣教したのではないということを思うのです。それは彼らが主の力によって宣教したということです。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」とイエス様は言われました。天と地の全権はイエス様にあるのです。だから彼らは遣わされたのです。イエス様の力によって遣わされていったということです。けれども、イエス様が救い主として活動を始められたときには、イエス様は天と地の一切の権能を持っておられなかったと考えてよいでしょう。宣教を始められる直前、イエス様は荒れ野で誘惑を受けられました。その時、「悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った」(マタイ4.8-9)と聖書にあります。イエス様はこの世界の権能を持っておられなかったということになります。その中でイエス様は「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(4.10)と言われました。この言葉のとおり、神に従うご生涯を送られたイエス様は、十字架へと進まれたのです。十字架にかかられ復活されたイエス様に、天と地の一切の権能が授けられたということになります。父なる神に従い、十字架にかかられ復活されたイエス様に一切の権能が授けられたのです。天と地の一切の権能、それは十字架と復活をとおして世の人々に罪の赦しと新しい命を与える力だと考えてもいいでしょう。だから弟子たちは宣教の働きへと遣わされたのです。
弟子たちを宣教の業へと派遣されるイエス様は「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言われました。洗礼は神の名によって授けられます。父と子と聖霊の名による洗礼を授けられるということは、十字架と復活をとおして与えられる罪の赦しと新しい命を受け取るということです。父なる神とみ子と聖霊から罪の赦しと新しい命を受け取るのです。罪を赦されるということは、本来神の前にいることできない罪ある者の、その罪が赦されて神と共にいることができるようになるということです。新しい命とは、神と共に生きる神の命です。父と子と聖霊の神から罪の赦しと新しい命が与えられるということは、神と共に生きる者とされるということなのです。イエス様は言われます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」、この約束が弟子たちを支え続けたに違いありません。そして、このイエス様の約束は、今も私たちを支えているのではないでしょうか。
旧約聖書には父なる神の「わたしはあなたと共にいる」という言葉が繰り返して記されています。イエス様は十字架にかかられる直前、弟子たちとの別れを前にして、彼らに父なる神が聖霊を遣わしてくださり、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と約束されました。ヨハネの福音書(14.16)に記されています。父なる神も、御子イエスも、聖霊なる神も、私たちと共にいてくださる方です。そのことを聖書は私たちにはっきりと教えているのです。私たちは信仰の歩みの中で神にさまざまなことを求めます。苦しみや困難を取り除いてくださいと願います。そういったことも私たちには重要なことだと思いますが、私たちの信仰の目指すところは、神が共にいてくださることをただ喜ぶことではないかと思うのです。罪を赦され、新しい命を与えられるということがどれだけ大きな励ましであるかということを思います。私たちがこの世の命を終えて、神に召される時にも、いつまでも共にいるというイエス様の約束が与えられているということが、どれほど大きな支えになるかということを思うのです。
弟子たちと同じように疑いの心を持つ私たちであるということを思います。ですから共にいてくださる神を感じて、大きな平安に包まれていると思ったら、そのすぐ後に神を感じられなくなり、不安や恐れに襲われる、そんなことの繰り返しであるように思います。「行きつ戻りつ」の信仰です。けれども神が、共にいてくださると約束してくださっているのです。父なる神、御子なる神、聖霊なる神は、私たちが弱くても、疑い深くても、決して見捨てずに共にいてくださる方なのです。
詩編27編(4)にこのようにあります。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」神の宮、神の家に住み、神と共にいて、神を仰ぎ、喜んでいること、つまり、神と共にいることを喜ぶこと、このことだけを神に願おうという信仰が記されているのです。それだけで充分、それだけですべてが満たされるという信仰です。そのような信仰を目指して、歩み続けたいと思います。
見ることのできない神と共にいるということは、心が神と共にあるということです。私たちはこの数か月、共にいることの難しい時間を過ごしてきました。その中で離れていても、心が共にあるということの大切さを改めて感じながら、また心が共にあることの難しさも感じています。神が私と共にいてくださるという約束は、神にあって私たちを互いにつなぎ合わせてくださるという約束でもあります。父なる神として、み子イエスとして、聖霊なる神として共にいてくださる、私たちが弱い者であるから、神は何重にも約束してくださっているように感じます。その何重もの約束で私たちは互いに結び合わされているということを思うのです。感謝し、神にあって共に歩んでいきたいと思うのです。(2020年6月7日)