「安らぎがある」-7月5日説教
マタイ11章16~19,25~30節
教会学校では、イエス様は子どもたちのことが大好きだと、しばしば話されます。聖書にある次の出来事(マルコ10.13-16)が印象的です。子どもを祝福していただこうと思い、人々がイエス様のところに子どもたちを連れてきたとき、弟子たちはその人々を叱りました。するとイエス様は「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」と言って逆に弟子たちをお叱りになり、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されたという出来事です。当時の多くの人々の感覚では、弟子たちの態度が普通だったのではないかと思います。しかし、イエス様は違っていました。今日の日課にも、子どもたちが登場します。子どもたちが遊びでうたっている歌にたとえて、当時の世の中の状況を示されたのですから、イエス様は、子どもたちの遊びも、その歌の歌詞も知っておられたようです。
今日の福音書は、イエス様が世の中の状況を嘆き、そして、疲れている人々を、重荷を負うている人々を招かれたという個所です。初めに広場で遊ぶ子どもたちのことが記されています。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」とあります。当時の子どもたちは結婚式ごっこやお葬式ごっこという遊びをしたようです。笛を吹いて結婚式ごっこをしようと誘ったのに、誘われた子は、踊ってくれなかった、つまり遊んでくれなかったというのです。また、葬式の歌を歌って、お葬式ごっこをしようと誘ったのに、遊んでくれなかったということです。遊ぼうと誘ったのに、遊んでくれなかったという歌を、当時の子どもたちは歌っていて、それをイエス様が引用しておられるということのようです。そのような歌になぞらえて、洗礼者ヨハネが、荒れ野でらくだの毛衣を着て、野蜜を食べるという禁欲的な生活をしていると、人々は「あれは悪霊に取りつかれている」と言っていたというのです。イエス様は徴税人や罪人とされていた人々と食事をされました。それは、失われていた人々が見つけ出されたことを喜ばれた出来事だったと言えるのですが、人々はそのようなイエス様を、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言って非難していたというのです。洗礼者ヨハネのことを受け入れようとしない人々、イエス様のことも受け入れようとしない人々、そんな人々のことをイエス様は嘆かれたのです。人々は素直な心で神に聞くことができずにいました。ヨハネのこと、イエス様のこと、また聖書の言葉を、神に聞こうとせずに、ヨハネのことも、イエス様のことも、聖書の言葉も、自分たちの考えによって理解しようとしていたと言えます。ヨハネの教えにも、イエス様の教えにも耳を傾けず、神の言葉さえも自分勝手に解釈しようとしていた律法学者たち、民の指導者たちのことを考えることができます。しかしイエス様は、「今の時代を何にたとえたらよいか」と言われたのです。民の指導者たちだけでなく世の人々も、神の言葉より指導者たちの言葉を喜んで聞いていた、そんな状況を考えてよいと思います。徴税人や罪人とされていた人々を蔑んでいたのは、律法学者たちだけはなかったと思います。世の多くの人々が、徴税人や罪人とされてた人々を、正しさからはかけ離れた人々だと考えていたことでしょう。確かに彼らを神の前に正しい人々だとは言えないのですが、だから彼らを蔑むということは、彼らと違って自分たちは正しい人の中に入ると考えていたということになるのではないでしょうか。
正しく生きようとすることは大切なことだと思います。けれども、正しく生きることができないと認めることは、それ以上に大切なことです。本当は正しい者ではない自分を正しい者とするために、聖書の言葉を、律法を自分勝手に歪めて解釈しなければならなくなるのだと思います。ヨハネを認めるなら、イエス様の言葉を受け入れるなら、自分が間違っていることを認めなければならなくなります。だからそうしないために、ヨハネもイエス様も拒絶し、神の言葉を自分勝手に解釈しようとしたということを思うのです。私たちも自分に都合よく聖書を解釈しようとしたり、耳に心地よい言葉だけを聞こうとしたりすることがあるかもしれません。聖書が教えている罪の一つに、自分を正当化するということがあります。自分を正しい者としようとする罪です。自分の罪を他の者に押し付けようとする罪です。創世記(3.12-13)に登場するアダムとエバが、神から「食べてはならない」と言われた木の実を食べてしまった後、アダムは神に「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と言いました。またエバは「蛇がだましたので、食べてしまいました」と言いました。自分の罪を人のせいにしようとしたのです。私たちも日々の生活の中で、同じように言い訳をし、自分を正当化していることがあるかもしれません。けれどもイエス様は、何とかして自分を正しい者にしようとすることから、私たちを解放してくださいました。罪が赦されるということを示してくださったからです。罪を認めてよいのです。罪の赦しが与えられるからです。
イエス様は神に祈られました。今日の日課の後半部分です。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」、幼子のようにあることが大切です。それは自分の知恵によって、自分の考えや判断によって生きようとするのでなく、神に信頼し、神に聞こうとしながら生きていこうとすることです。そしてイエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言って、人々を招かれたのです。「だれでもわたしのもとに来なさい」と言われました。「だれでも」です。何のために疲れてしまったのか、どのような重荷なのかは問うておられません。自分の罪を重荷と感じている人も、正しく生きようとすることに疲れてしまった人も、人間関係のことで、病のこと、日々の生活のことを重荷と感じ、疲れてしまった人も、イエス様は招かれ、休ませてあげようと言われたのです。けれどもイエス様は、これからはもう荷物を背負わなくてよいと言われたわけではありません。「休ませてあげよう」と言われたのであって、荷を負うことから解放されたわけではありません。イエス様のもとに行くことによって、もう何もしなくてよくなるということではないようです。担わなければならないものがあるのです。ただそれは、イエス様のもとで少し休憩するから、休憩の後は荷が少し軽く感じられるということではありません。イエス様に励まされ、元気になってもう一度頑張ることができるというようなことでもありません。イエス様は「わたしの軛を負いなさい」と言われました。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われたのです。イエス様のもとに行って、休んだ後も私たちは荷物を背負わなければならないのですが、それまでの荷物とは違う荷物を背負うことになるのです。イエス様の軛を負い、イエス様の荷物を引くということです。イエス様と出会い、イエス様と共に歩み始める時に、負う荷物です。その荷物は、自分の罪であったり、人と関わることであったり、病のことだったり、生活のさまざまなことであったりと、言葉で表すならイエス様のもとに行く前と同じかもしれません。しかし、イエス様と出会う前と後では、それらの意味は変わってくるということを思うのです。赦されることを知る前の罪と、赦しを知った後の罪はさまざまな意味で違ってきます。イエス様は、私たちと隣にいる人の間に入ってくださいますから、その人との関係も変わってくるはずです。イエス様と出会うと、病が治って、だれもが健康になるわけではありませんが、病の中でも変わることのない希望を見出すことができます。価値観が新しくなり、生活のさまざまなことの意味も変わってきます。イエス様と出会った後であっても、私たちは、聖書の言葉も、身の回りのさまざまなことも、自分に都合よく、自分勝手に考えてしまうことがありますから、気が付くと荷物は、元のように重くなり、疲れてしまっていることがあるかもしれません。ですから、その度に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」というイエス様の言葉を聞き、イエス様のもとに立ち帰りたいと思います。幼子のようにイエス様に信頼し、もう一度イエス様の軛を負い、イエス様の荷物を引くという歩みを始めたいと思うのです。イエス様は私たちと共に軛を負うてくださいます。そこに既に大きな安らぎがあることを私たちは知っていると思うのです。(2020年7月5日)