「掛け替えのないもの」-8月30日説教
マタイによる福音書16章21~28節
福音書はイエス様の優しさや憐れみ深さだけではなく、厳しさも記しています。私たちは優しいイエス様にだけ向かいたくなるかもしれませんが、厳しいイエス様にも向かわなくてはならないと思います。その優しさ、憐れみ深さがイエス様の愛ゆえの優しさや憐れみ深さであるように、イエス様の厳しさも愛ゆえの厳しさだからです。イエス様の弟子たちは、イエス様からしばしば厳しく叱られました。けれども彼らは、その厳しさが愛ゆえの厳しさであることを感じていたのではないかと思います。弟子たちは、どんなことがあってもイエス様に従っていこうと思っていた(マタイ26.35)からです。皆、最後まで従い続けることはできなかったのですが、それでも彼らがそうしたいと思っていたことは、確かなことだと思います。今日の福音書にもイエス様の厳しい言葉が記されています。愛ゆえの厳しさにしっかりと心を向けたいと思います。
異邦人の地、フィリポ・カイサリア地方で、イエス様の「あなたがたはわたしのことを何者だというのか」という問いに、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答え、イエス様への信仰を告白しました。その後のことです。イエス様は、ご自分がエルサレムで長老、祭司長、律法学者たちから苦しみを受けて殺され、三日目に復活することなっていると弟子たちに告げられたのです。イエス様の受難と死、そして復活の予告です。この言葉をペトロは素直に聞くことができませんでした。イエス様をわきへお連れして「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめたというのです。いさめたと訳されていますが、この言葉は「叱責する」とか「怒鳴りつける」というような意味も持つ言葉ですから、ペトロははっきりと、かなり強い口調でイエス様をいさめたと考えることができます。けれども、そんなペトロは逆にイエス様から叱られたのです。「サタン、引き下がれ」、非常に厳しい言葉です。ペトロがサタンだったということではありません。けれどもこの時、サタンが、悪の力がペトロを利用しようとしていたのだと思います。ペトロの心にサタンの入り込む隙間が生まれていたのかもしれません。だとしますと「サタン、引き下がれ」という厳しい言葉は、ペトロをサタンから取り戻そうとする言葉だと考えることもできます。イエス様は続けて、「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われました。これは心に隙間を作ってしまったペトロへのイエス様の言葉だと思います。「神のことを思わず、人間のことを思っている」、御心に従おうとせずに人の思いによって行動しているということです。イエス様にあなたはメシアですと告白したペトロでしたが、ペトロの考えるメシアが、民の指導者である長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されることなど、あるはずがないと思えたのでしょう。ペトロの中に自分の利益を求める自己中心的な思いが少しもなかったとは思えませんが、この時のペトロにはイエス様のことを強く思う気持ちがあったはずです。尊敬するイエス様が、従って行こうと思っているイエス様が、大好きなイエス様が殺されるなどということを受け入れることができないと感じたのだと思います。そんなペトロですが、彼はイエス様に「あなたはメシア、生ける神の子です」と言いました。イエス様は神の子とだと告白したのです。そのイエス様が言われたことを受け入れず、神の子をいさめようとしたペトロは、神よりも自分の思いを優先させていることになります。私利私欲にあふれた思いではなかったとしても、御心よりも自分の思いを優先させたところにサタンの入り込む隙間ができたのだと思います。ペトロは良いことをしていると思っていたかもしれません。しかし御心を離れて自分の思いで行動しようとするときに心に隙が生じるのだと思います。良いことをしているという思いが、逆に心の隙間を大きくするのだと思うのです。
ペトロのことではなく、私たちのことを考えたいと思います。私たちは自分の思いを優先させるのではなく、御心に従って歩んでいると言えるでしょうか。御心に従いたいという思いはあっても、いつも御心に従おうとしているわけではないと思います。「そこまではとてもできない」とあきらめてしまったり、さまざまな理由をつけて言い訳をしたりしながら、御心に従っていることよりも、自分の思いを優先させていることの方がはるかに多いと言わなければならないように思います。私たちも、神の言葉を素直に聞くことができずに、神に対して意見したり、「どうしてですか」と訴えたりすることがあると思います。それでは私たちも、イエス様から厳しく叱られてしまうのでしょうか。私たち一人一人にイエス様がどのようにかかわられるかということを、それこそ私たちが自分の思いを優先して決めることはよくないと思います。ただイエス様のご受難と復活の予告に「そんなことがあってはなりません」と言った、この時のペトロは、イエス様の十字架による救いの業を、神の救いの業を止めようとしたのです。単に御心よりも自分の思いを優先させてしまったというだけではありません。初代教会を代表する者として教会の働きをゆだねられた、ペトロに対するこの時のイエス様の厳しさは、特別なものだったと考えることもできます。確かにそう思うのですが、イエス様は私たちにも、同じような厳しさをもって向かわれることがあるということも思います。
イエス様は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。自分の十字架を背負うということは苦難を覚悟するということです。死を覚悟することだと言ってもいいでしょう。イエス様に従いたいと思うならば、自分を捨て、自分の思い、自分の大切なものを捨てて、死を覚悟して従わなければならないということです。これはペトロだけに向けられた厳しさではありません。イエス様に従おうと思う者に対して向けられている厳しさです。その厳しさの理由を改めて考えなければならないと思います。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」とイエス様は言われました。それは当たり前のことと言えるでしょう。命はどんな代価を支払っても買うことはできません。けれどもそれは当たり前であっても、当たり前のことになっていないと、私たちにはそのことが分かっていないということも思うのです。私たちは、命のために食べているのに、食べるために命をすり減らしています。命のためにお金があるのに、お金のために命をすり減らし、危険にさらすことすらあります。まさに本末転倒だと言わなければならないではないでしょうか。けれども、それが私たちの現実です。分かっているはずなのに、できていないということを思うのです。「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」、私たちは自分の命を買い戻す代価を支払うことはできないのです。けれども忘れてはならないことがあります。イエス様がその代価を支払ってくださったということです。その代価はイエス様の命です。イエス様が十字架にかかってくださったことによって、私たちにイエス様にある命が与えられたのです。この世の命を超えて、イエス様と共にいることのできる、主の愛に包まれて生きる命です。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」、このような厳しい言葉を聞くならば、「私にはとてもイエス様に従うことはできない」と思うかもしれません。けれどもイエス様に従うところに命があるのです。ご自分の命を投げ出して、私たちに与えてくださった命です。イエス様の厳しさは、私たちにどんなことがあっても命を失ってはならないということを伝えるときの厳しさです。どんな犠牲は払っても命を得るようにとイエス様は願っておられるのです。私たちが危険を感じていなくても、私たちの命は危険にさらされていることがしばしばあるのだと思います。そのようなときに私たちの命を愛してくださるイエス様は、厳しく私たちに向かわれるということを思います。私たち一人一人の命をただ一つの命として見つめてくださるイエス様に従っていたいと思うのです。(2020年8月30日)